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2009年12月14日 (月)

塩田平の秋2

11月1日の塩田平の中禅寺と塩野神社です。中禅寺は塩田平で一番古く空海により開基された寺院と言われています。薬師堂は重要文化財に指定されています。塩野神社は前山塩野神社とも呼ばれます。現在は独鈷山の麓の前山地区にありますが古代は独鈷山の山頂近くにあったようで、この現在の地は遥拝所として建てられた様で、後に本殿もここに建てられたようです。貞観十五年(873)「信濃国塩野の神」に正六位上という官位がおくられた記事が『日本三代実録』という書物にのせられているそうです。それから50年程後に出来た延喜式神名帳には「式内社」として載っています。式内社とされた神社は由緒正しいのだそうです。社殿の南側に大きな岩が立ち並び、その上に石の祠〔ほこら〕があります。これを「盤座(いわくら)」といいます。盤座というのは、神がお下りになる岩場のことで、神様の御座所です。その原形は有名な奈良県の三輪山などに求められ古い神社の典型的な形式です。この神社は大きくはありませんが何か荘厳な重々しい身の引き締まる様な感じがしました。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mmです。

万葉集から大伴家持の歌。

      秋草に

    置く白露の

      飽かずのみ

    相見るものを

    月をし待たむ

(意)秋の草に置く白露のように、いくら逢っても飽きる事がない逢瀬なのに。あの人がいらっしゃるまで、私はこうして月が傾いていくのを待っているしかないのか。

中禅寺:

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塩野神社:

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2009年12月12日 (土)

東京大学と三四郎池の秋

11月29日に文京区の東京大学本郷キャンパスの構内と三四郎池へ行ってきました。大学時代に六大学連盟の打ち合わせに行って以来です。大学構内は銀杏の黄葉の真っ盛りでとても綺麗でした。構内の三四郎池は見事な紅葉でした。六義園から回りましたので農学部から入って工学部、安田講堂、三四郎池と回って赤門から外へ出ました。広大な敷地で素晴らしい紅葉でした。やはり最高学府だけの事はありますね。ゆっくり回ればなかなか面白い写真のネタが見つけられると思いましたが、浅草で知人たちと待ち合わせをしていて、だんだん暗くなってきました。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。

東京大学の本郷キャンパスは江戸時代は加賀前田家100万石の上屋敷でした。第2代藩主前田利常が上屋敷の中に作った庭園の育徳園の中にあったを形どった池だったそうで、育徳園心字池が正式名称だったようです。私にはどう見ても心の形には見えません。昔はヒョウタン池と呼ばれていたようですが夏目漱石が小説「三四郎」の中で主人公が熊本五校を卒業し上京して東大文学部に入学する前に赤門から東大の構内に入って、この池の周りを歩いたことから三四郎池と呼ばれるようになったそうです。

東京大学の赤門は、江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女、あるいはその居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を丹塗(にぬ)りにしたところから俗に赤門とよばれました。加賀前田家の御守殿門は、文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫(やすひめ)が13代藩主前田斉泰に嫁入りしたときに建てられました。赤門は、火災などで焼失してしまったら再建してはいけない決まりがあり、この赤門は災害などを免れて現存している証拠です。昔は東大の正門だった時もあったようですが東大の正門は赤門から100メートルほど北へ行ったところにあり安田講堂が正面に見える門です。昔の歴史のある大学には門が重要だったのかもしれません。慶應大学にもにも「幻の」があり応援歌にも歌われています。早稲田大学の校友会は稲会と呼びます。落語など芸能には一門がありますね。を詳しく調べると面白いかもしれません。

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2009年12月11日 (金)

三渓園の秋1

11月26日に横浜市本牧の三渓園へ行ってきました。三渓園は明治時代に生糸の輸出で財を成した原三渓(本名富太郎)によって作られた和風庭園で、園内には京都や鎌倉から移築された建物群が点在する広大な素晴らしい庭園です。現在は国の重要文化財10棟、横浜市指定文化財3棟が園内に配置されています。昭和28年に原家から横浜市に寄贈されました。三重塔は旧燈明寺三重塔を移築したものです。原三渓は古美術の収集家としても有名でしたが、戦後の混乱で多くを散逸してしまいました。戦前は京都や奈良そして鎌倉の多くの大寺院は非常に疲弊していて寺院の歴史的建造物や寺宝などを収集家へ売り渡す事で寺院を維持していました。現在は文化財保護法という法律により手厚く保護されて、また観光客を呼び込むことにより入場料金で寺院の維持が出来るようになって来たようです。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&トキナー19-35mmです。

明治時代初期に日本の絹糸は世界トップクラスの製品で、日本の主要輸出品でもありました。養蚕は関東では群馬県、埼玉県で盛んで生糸の多くは横浜港から輸出されました。明治政府は明治5年に群馬県富岡に日本初の官営製糸場の富岡製糸場を建設しました。この建設に尽力したのが当時、大蔵民部省の官吏だった渋沢栄一でした。彼は後日「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書き記しています。富岡製糸場は明治28年国から払い下げられ、三井家→原三渓(原合名会社)→片倉製糸紡績会社(片倉工業)と所有者が変わり昭和62年まで115年間も操業が続けられました。

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2009年12月10日 (木)

河津バガテル公園の秋バラ1

11月22日の伊豆半島の河津町の河津バガテル公園の秋バラです。このバラ園はフランスのパリの郊外のブローニュの森にあるバラで有名なバガテル公園と河津町が提携して開園したバラ園でパリのバラ園の1/5程の面積です。パリのバガテル園は王侯貴族達の私園として発達し20世紀初頭からパリ市が管理をしているそうです。バガテルとは小さくて可愛いという意味があるそうです。河津のバガテル公園の春のバラは綺麗です。伊豆半島では熱海のアカオ・ハーブ&ローズガーデンと並ぶバラの名園です。ワンちゃんは痩せが♀マリアンちゃん、太めが♂ルイ君です。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトです。

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2009年12月 9日 (水)

小石川後楽園の紅葉1

12月2日の東京都文京区の小石川後楽園です。水戸徳川家の祖である徳川家康の11男の徳川頼房(よりふさ)が上屋敷に築いた築山泉水回遊式の庭園で、第2代藩主徳川光圀(水戸黄門)により改修された庭園です。名前の後楽園は中国からの亡命者で儒学者の朱舜水(しゅ しゅんすい)の命名と言われています。朱舜水は清朝に抵抗して複明運動を指導した中国と日本の混血の鄭成功(てい せいこう)とともに活動をし、江戸幕府へ中国へ出兵を要請するために日本へ渡ってきましたが抵抗運動から離れ水戸光圀の庇護のもと水戸学へ多くの影響を残した人物です。朱舜水は小石川後楽園にも大きな影響を与えたと言われています。岡山にも後楽園があるので、ここは小石川にある後楽園なので小石川後楽園と呼ばれています。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。池への紅葉の写りこみが綺麗なところです。

徳川尋子の辞世の歌の三首のうちの一首。

      梢より

    あらそひ落つる

      もみぢ葉の

    もろくなりゆく

    我が身なりけり

(意)梢から急いで落ちていくモミジの葉のように、はかなくなっていく私の命です。

徳川尋子(ひろこ)は徳川光圀の正妻で後陽成天皇の皇子で、近衛家の養子となった関白左大臣近衛信尋の次女です。17歳で光圀に嫁ぎ21歳で亡くなりました。夫婦仲は非常によかったようで、尋子の亡きあと光圀は後添いをもらいませんでした。もちろん側室はいたようですが。尋子は亡くなる時に辞世として三首の歌を残しています。

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2009年12月 7日 (月)

唐沢山の紅葉1

11月28日に栃木県佐野市の唐沢山へ行ってきました。唐沢山は唐沢城が昔あった場所で江戸時代初期に廃城となって明治になり本丸跡に唐沢山神社が鎮座しました。唐沢城は平将門征伐に大功のあった、藤原秀郷が築いたと言われている城です。藤原秀郷は藤原北家房前の子孫と言われています。秀郷は延長5年(927)下野国の押領使として佐野の唐沢山に本拠を構えました。押領使とは現代の県警察本部長です。平将門が都に対して反乱(天慶の乱)をおこし関東8カ国の国府を攻め滅ぼし新皇と称し独立しました。この時に藤原秀郷は平貞盛(伊勢平氏の祖で、武士として初めて太政大臣となった平清盛の先祖)と力を合わせ平将門を下総国辛島で攻め滅ぼしました。その功によって秀郷は唐沢山に本拠を持ちながら下野国守となり後に武蔵国守を兼務するようになりました。その後、江戸時代初期まで700年ほど代々唐沢城は秀郷の血筋の佐野氏が城主を務めました。佐野家は江戸初期に幕命によって唐沢城を出て現在の佐野市内城山公園に春日城を築き始めましたが、完成前に佐野家は慶長18年(1613)に理由がはっきりしないのですが改易となり、後に3代将軍家光により旗本として取り立てられました。

唐沢山は非常にモミジの紅葉が綺麗な場所です。毎年のように行っていますが、今年はやはり赤が少ないですね。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mmです。

画像はクリックで大きくなります。

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2009年12月 6日 (日)

下野国 雲巌寺の秋2

11月15日の栃木県大田原市(旧黒羽町)の雲巌寺です。寺伝によれば叟元和尚によって大治年間(1126~1131)開基されたと伝えられています。仏国国師によって開山されました。仏国国師の元に日本中から優秀な僧侶が集まり多くの弟子が雲巌寺から育ちました。京都と鎌倉で多くの寺院の住職を務め、沢山の禅風の庭園を造作した夢窓疎石(むそうそせき)も雲巌寺で仏国国師のもとで修業をしました。

風雅集から仏国国師の歌。

      夜もすがら

    心のゆくへ

      たづぬれば

    昨日の空に

    とぶ鳥の跡

(意)夜を徹して心の行方を探し求めていると、まるで昨日の空に鳥影の飛び去った跡を追うかのようで、虚しいことよ。

仏国国師は後嵯峨院の第三皇子と言われています。上野国長楽寺で無学祖元の弟子となり、鎌倉の建長寺で住職の中国明州慶元府(浙江省)出身の無学祖元から伝法衣を授かりました。伝法衣とは法脈相承の証として師から弟子に受け継がれる袈裟で、禅宗において特に重要視されるものです。仏国国師は雲巌寺を開いてからも鎌倉の浄妙寺・建長寺などの住職を務め、最後は雲巌寺に戻り亡くなりました。

雨の中での撮影でした。雨用のオリンパスE-3とズイコー14-54mm&50-200mmです。やはり長い間使っていてオリンパスの防塵・防滴は信頼できます。

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2009年12月 5日 (土)

旧黒羽町 浄法寺

11月15日の栃木県太田原市の旧黒羽町の黒羽城址の隣にあった城代家老の浄法寺高勝(図書)の屋敷跡です。浄法寺はお寺ではなくて名前の苗字です。浄法寺高勝は鹿子畑高明の次男でしたが伯父の城代家老の浄法寺家へ養子として入りました。大関高増が大田原から出て大関氏の名跡を継ぐときに鹿子畑能登は大田原氏の家来でしたが、付家老として大関高増を後見をしました。鹿子畑能登の子孫である浄法寺高勝は禄高500石の城代家老を務めていました。浄法寺高勝は松尾芭蕉の弟子で俳号を桃雪と号しました。松尾芭蕉が奥州への旅の途中で黒羽に13泊し、城代家老の浄法寺の屋敷内の庵に13泊のうち8泊しました。よほど黒羽が気に入ったのでしょう。写真の中の句碑の場所に芭蕉の滞在した庵がありました。

 山も庭 もうこき入るや 夏座敷    芭蕉

この歌は浄法寺の屋敷に滞在していた時に庵で詠まれた俳句です。奥の細道に浄法寺家の屋敷の庵の事を「地は山の頂にささへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるようになん。水の音、鳥の声、松杉のみどりも こまやかに、美景たくみを尽す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや」と書かれていて、いまだにその面影が残る素晴らしい屋敷跡です。本当に美しい庭でした。入口に季節外れの紫陽花が数輪綺麗に咲いていました。この日は朝から強い雨でした。雲巌寺から芭蕉の館までは傘をさしての撮影でしたが、浄法寺のころは小雨になりました。旧黒羽町は紅葉の綺麗なところです。まだ観光バスが入っていないので荒らされていません。カメラは雨にメチャ強いオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

浄法寺氏については詳しい事は分かっていません。栃木県那珂町(旧小川町)に館があったようで那須七騎の大関氏の家来でした。浄法寺氏として有名なのは鎌倉幕府の重臣だった畠山重忠の三男の重慶で、鎌倉幕府によって畠山一族が攻め滅ばされた時に三男だけは僧籍にあったために奥州へ逃げ出す事が出来、浄法寺氏を名乗り代々南部氏の重臣として岩手県二戸地方を治めた大族でした。鎌倉の浄法寺で修業をしていたので浄法寺を名乗ったとも言われています。浄法寺氏は慶長8年(1603)に南部氏に対する反乱に加担したとして改易処分されました。黒羽の浄法寺氏との関係は分かりませんが名前からして何らかの関係があったと思われます。

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2009年12月 2日 (水)

中野市 一本木公園の秋バラ2

10月31日の長野県中野市の一本木公園の秋バラです。中野市は一般には信州中野と呼ばれています。志賀高原への入口にあたり千曲川が蛇行して市の西部を流れています。源平時代から高梨氏が治めていました。戦国後期には越後にも少し領地があったために越後の長尾(上杉)氏と関係を深め武田信玄の北信州侵攻により中野を追い出され、少し北方の北信州の最北の飯山郷に追い込まれました。その後、川中島の合戦後に北信濃国人衆は徐々に上杉家の家臣団に組み込まれていきました。織田信長が滅びた後に上杉景勝が北信州に入り、高梨氏も中野の地に再び戻りましたが、上杉景勝の会津移封に従い中野から会津に移りました。江戸時代の中野は天領として代官所の中野陣屋が設けられました。

一本木公園には信州忽布(ホップ)発祥の碑があります。大正時代初期に大日本麦酒(株)が、ビールに苦みと香りをつけるためのホップの自給のために、この地で栽培を開始しました。大日本麦酒(株)は戦後アサヒビールとサッポロビールの2社に分割されました。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&タムロン90mmです。ソフトフォーカスはカメラ内のデジタルフィールターです。

先日、タイヤをノーマルからスタッドレスに替えてきました。ノーマルタイヤは2輪にスリップマークが出てきたので来春には新しいタイヤを履かないといけないようです。デフレですからタイヤも安くなっているようです。車は来年の1月で3年目に入るので来年3月に乗り換えるか、来春に新しいタイヤを買って2年ほど走るかが問題です。その場合は来年11月にスタッドレスも買い替えないといけません。2年間で5万キロ以上走るので4年間だと10万キロを超えてしまいます。これでも最近は昔に比べて走らなくなっているのです。スタッドレスに替えると高速道路でスピードを出せなくなります。それだけ安全運転になりますが、何となく不満!です。もうそろそろ年齢の事を考えないといけないですね。

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2009年11月30日 (月)

平林寺の秋1

11月24日の埼玉県新座市の平林寺の秋です。この週が平林寺の紅葉の最盛期だったでしょう。今年の紅葉はどこでも葉の先が枯れていたり、中ほどが枯れている葉が目立ちます。また赤い色のモミジが今年は関東中どこでも少ないです。赤くなるほど冷え込んでこないのでしょうね。平林寺は首都圏では有数な紅葉の名所で、多くの観光客やカメラマンを集めます。この日も凄い人でした。どこにカメラを向けても人の頭が入ってしまうのでカメラを大きく上に向けないといけません。また最近はデジ一眼でもデジカメのように液晶でピントを合わせる人が多く1枚の写真を撮る毎に画像をチェックするのでかなりの時間がかかります。後ろで順番を待つにはかなりの我慢をしないといけません。カメラはソニーα900とVarua-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

平林寺は永和元年(1375)に大田備州沙弥蘊沢により埼玉県さいたま市岩槻区(旧岩槻市)に開基されました。大田備州沙弥蘊沢とは誰なのか私にはわかりません。一説には太田道灌の祖父か曾祖父だとも言われていますが田と田の違いがあります。もっとも昔はあまり漢字にはこだわらなかったのかもしれません。江戸時代前期に川越城主であった松平信綱・輝綱父子によって現在の埼玉県新座市野火止の地に移されました。平林寺の裏の雑木林は武蔵野がそのまま残されていて国の天然記念物に指定されています。50年ほど前はこの辺りはほとんどが雑木林で、その中に畠が少しあって農家が点在する場所でした。45年ほど前から急激に住宅開発が進み雑木林がどんどん無くなってしまいました。

新古今集から源通光の歌。

      武蔵野や

    ゆけども秋の

      果てぞなき

    いかなる風か

    すゑに吹くらむ

(意)武蔵野は行けども行けども、秋の景色も、あわれ深さも果てがない。野の果てには、どんな風が吹いているのだろうか。

「いかなる風」は藤原定家が書き表した歌学書「定家十体」では「いかなる風」となっていて、の方が正しいとの意見が多いようです。昔の武蔵野はこの歌のように人がほとんど住まない広大な土地だったのです。

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