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2009年7月

2009年7月31日 (金)

日光 憾(含)満ヶ淵

7月19日に日光の日光植物園の大谷川を挟んだ反対側にある、憾満ヶ淵へ行ってきました。含満ヶ淵とも言います。ここのお地蔵さまは化け地蔵と呼ばれていて行きと帰りにお地蔵さまの数を何度数えても合わないので化け地蔵と呼ばれています。化け地蔵は現在は無住の寺院の慈雲寺の境内にあります。川の崖上にマタタビの実と花がありました。私は初めて写真に撮りました。ネコちゃんがいたら酔っぱらってしまうでしょうね。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmマクロです。

大正天皇の歌碑が入口にありました。

      衣手に

    しぶきにぬれる

      大谷川

    月夜涼しく

    岸づたいせり

憾満ヶ淵は日光植物園の反対側にありますので日光植物園の隣にあった田母沢御用邸は至近にあります。束縛をされるのを嫌い自由奔放な大正天皇は散歩の途中でこの辺りも歩いたのだと思います。

昨夜は久しぶりに青山のブルーノートでロバータ・フラックのコンサートへ行ってきました。内容は過去の遺物ですね。やはり旬を過ぎているとダメですね。私の評価は厳しいでしょうが。コンサートとしては楽しめました。彼女の代表作「killing me softly with his song」は少し声が出ていませんでした。以前、ヘレン・メリルも聴きに行ったこともありましたが、やはり声が出ていませんでした。彼女達と全く違っていたのは、かなり前の話になりますがジューン・モンハイトでした。全く彼女の名前を知らず、知人達と渋谷でお酒を飲んだ後で誰ともなくブルー・ノートへ行こうと言いだし、電話で2ndステージの当日券を予約してタクシーを飛ばして行きましたが、彼女の唄う初めの一声で引きこまれました。素晴らしい歌手でした。若手ではNo.1だと思います。彼女の名前は一緒に行った音楽好きの私の知人達も全く知らない名前でした。いまに彼女はアメリカを代表するジャズ歌手になると思います。やはり才能のある若者には年寄りは負けますね。年寄りが勝てるのは経験からくる手練手管だけでしょうね。私も日々実感しています!

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2009年7月30日 (木)

日光田母沢御用邸記念公園2

7月19日の日光の田母沢御用邸記念公園です。室内の写真撮影はもう少し低い位置から撮らないといけませんね。少し腰を下げて中腰で撮ったのですが、膝を床に付くか正座の位置ぐらいで撮った方が綺麗に撮れますね。丸窓は独特の雰囲気を作ります。また窓ガラスも波板ガラスで独特の雰囲気を醸し出します。ここは大正天皇が皇太子時代に作られた御用邸で天皇に即位後もこの御用邸で過ごす事も多かったようです。カメラはソニーα900&Vario-Sonnar24-70mm&&シグマ50mmF1.4です。

大正天皇の春曙と題する和歌。

      百千鳥

    かすみのうちに

      鳴きいでて

    花よりしらむ

    あけぼのの空

この歌は大正天皇が大正6年に詠った歌です。大正6年頃から和歌や漢詩の創作は少しづつ数を減らしてきたようです。この歌は意味も必要のない程の美しい和歌ですね!これだけの和歌は普通は詠えないと思います。大正天皇はかなり知的能力や美的感覚が鋭い人だったのでしょうね。中世の京極派和歌(玉葉集・風雅集)を思い起こすような感じの美しい和歌だと思います。やはり大正天皇は幽閉されたのかもしれません。日本帝国主義が朝鮮半島から中国へと向かう時でした。明治天皇や昭和天皇のように上から下を見るような和歌ではなく大正天皇の漢詩や和歌は庶民と同じ視点で美しいものを見ているように感じます。やはり日本帝国拡張主義者にとって軟弱な平和主義の天皇は邪魔だったかも知れません。大正天皇については在位期間が短く、意図的に隠されたようなところもあるようなのでよく分からないところが多いのです。大正天皇の和歌は文芸評論家の丸谷才一氏は、「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」と云う。その代表的秀歌を論じながら、「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」と、また作家の五木寛之氏も「大正天皇の短歌を絶賛し、彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しています。私も最近大正天皇の歌を知り、確かにその通りだと思う様になりました。このような素晴らしい歌を詠える人は繊細なのでしょう。国際政治や国内政治の混乱期の天皇としては繊細すぎるかも知れません。ノイローゼ状態にもなるでしょう。

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2009年7月29日 (水)

盛夏のコテージガーデン・ステファニー1

7月25日の栃木県那須烏山市のコテージガーデン・ステファニーです。梅雨の戻りの気候の中で夏の花が咲き競っています。黄色い女郎花(オミナエシ)は最近綺麗だと思うようになりました。今年の気候はかなりオカシイですね。エルニーニョの影響だけでしょうか?カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mm&タムロン90mmマクロF2.8です。

古今集から壬生忠岑(みぶのただみね)の歌

      人の見る

    ことやくるしき

      をみなへし

    秋霧にのみ

    たちかくるらむ

(意)人に見られることが辛いのだろうか。女郎花(おみなえし)は、秋の霧に隠れてばかりいる。

平安時代では女郎(おみな)は悪い意味ではなく、上流階級の美女の事を指す美称でした。もっとも平安時代の貴族階級は男女とも、ほとんどフリーセックス状態でしたので女郎でも間違いがないかも知れません。平安時代の貴族は男性から女性へ小者(童)を使いに出して夜の予定を聞いてから女性の元へ忍んで行きました。間違っても女性の部屋で他の男性とカチ合わないようにするお互いの暗黙のルールがありました。源氏物語の「空蝉」には源氏の君がルール違反をして連絡なしで突然女性の許を訪れる話があります。この時源氏の君はお目当ての空蝉が薄衣1枚を残して逃げ出してしまったので、代わりに空蝉の義理の娘の軒端荻(のきばのおぎ)と一夜だけの関係を持ってしまう話があります。

当時の貴族は当然道案内を兼ねた小者や護衛(侍)を連れて女性の許を訪れました。小者や護衛は御主人を待つ間に何をしているかと言うと、女性の屋敷の下女等の部屋へ忍んで行く事も多かったようです。そして夜が明ける前に女性の元を去って自分の屋敷に帰るのですが、それだけでは終わりません。女性の元へ後朝の文(和歌等)を贈る事で交際が続く事になります。後朝の文を出さない事は次は行かないと言う事になります。しかし、平安時代の夜はほとんど無駄な灯火は使いませんでしたので新月の夜は真っ暗闇の中を手さぐりで相手の女性の部屋の中に入るわけですので顔も形も見る事は出来ません。暗闇の中で語り合うわけです。まあ考え方によってはそれもまたロマンティクかも知れませんね。満月の夜ならば扉を開け放って春夏秋は顔などを見る事が出来たでしょうが、冬は満月でも部屋の中は真っ暗闇でした。

後朝(きぬぎぬ)とは共寝をした翌朝の別れの事です。昔はお互いの着物を重ね合わせてその上で寝ました。したがって衣衣(きぬぎぬ)から後朝の言葉が生まれたと言われています。後朝の文を持っていくのは小者(童)でした。これを「後朝の使い」と呼びました。当然、後朝の使いは女性からの返事の文を持ち帰る事になります。女性は悪口を言われないようにたんまりとお小遣いを後朝の使いにあげたでしょうね。まあ、キューピットでしょうかね?この小者もなかなかの曲者もいました。女流歌人で有名だった和泉式部は弾正宮為尊親王と関係がありましたが為尊親王が亡くなると為尊親王の弟宮の帥の宮敦道親王と関係を持ちました。その仲立ちをしたのが為尊親王の後朝の使いの小者で為尊親王が亡くなってから敦道親王の小者となり和泉式部と敦道親王との愛のキューピットを務めました。たぶんその小者もたんまりとお礼を貰ったのでしょうね。そのあたりは「和泉式部日記」に正確に書かれています。

昨日、民主党がマニフェストを出しました。マスコミや自民党を先頭に批判の嵐ですね。しかし、よく考えてみてください。

麻生政権で経済危機対策と銘打った14.7兆円もの選挙対策用09年度補正予算の中身が、いかに官僚組織を太らせるための多くの税金無駄遣であったのか忘れてはいませんか。例えば、公共事業費4.7兆円のうち、2.9兆円は官庁や独立行政法人などの建物の施設整備費です。その他の歳出項目、健康長寿・子育て2兆円、21世紀型インフラ整備2.6兆円など、ほとんどに施設整備費が紛れ込んでいて役人や天下り団体だけが太るような補正予算でした。これは無駄の範囲を超えた国家的な横領事件で国民に対する背信行為だと思います。いまこの官僚中心の統治機構を変えないと日本国が崩壊してしまうのです。いまこの機構を根本的に変え官僚支配から脱却する好機だと思います。民主党は事務次官会議を廃止をマニフェストに入れています。現在はこの閣議前に行われる事務次官会議で全ての事が決められていて閣僚の閣議は形式となり短時間で終わります。オカシイでしょう!閣議で各大臣が堂々と意見を述べ話し合えば良いでしょう。それを調整するのが官房長官で、最終決定するのが総理大臣です。決まらなければ徹夜で議論すればいいのです。1日や2日は閣議決定が遅れても良いではないですか。それが本来の姿です。官僚と全面戦争になるかもしれませんが与野党ともに国会議員は全員が国民の代表者のはずで、官僚の代表者代弁者ではないはずです。官僚は元の位置、つまり官僚として国民に奉仕する位置に戻るべきでしょう。官僚にそこまで思い上らせた責任の多くは自民党の体質にありました。猛省すべきです!猛省して自民党は出直して政権の奪還を目指すべきでしょう。いまの自民党と官僚は第2次世界大戦の戦後の世界にいるのではないでしょうか。国民や野党には出来るだけ情報を渡さないで美味しいところだけは自分達だけで山分けして来ました。今はもう戦後ではないのです。世の中が変わっているのです。どうせ官僚支配は変えられないと諦めてはいけないと思います。果敢に挑戦するところから時代が変わるのだと思います。自民党の大臣達が財源論を振りかざしていますが、赤字を垂れ流して財源無視で赤字国債を大量発行してきた自民党が財源論を持ち出すのはオカシナ話です。赤字国債垂れ流しなら私でも出来ます。それと民主党のマニフェストに是非入れてもらいたいのが各省庁にある記者クラブの全廃です。これで新聞記者の仕事は倍増しますが、官僚や政党の情報操作は大幅に減ります。いまは記者クラブを使って情報を操作できるシステムなのです。記者クラブが無くなると記者は自分の足で情報を取らないといけなくなり、国民に隠された情報が出やすくなるのです。

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2009年7月28日 (火)

原市沼の古代蓮(行田蓮)

7月23日に埼玉県の伊奈町と上尾市の境にある原市沼の蓮を撮りに行ってきました。今年2回目です。花数はかなり減ってきています。花托が目立ちました。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズの18-55mm&55-300mm&タムロン90mmマクロです。後半のソフトはK20Dの内部処理でソフトフォーカスにしました。原則的に私はRaw撮影ですがK20Dの内部で画像処理が出来るのはJpegだけなのでRaw+でRawとJpegを同時にメディアに記録しました。カメラ内での画像処理は今回初めて試しました。綺麗にソフトフォーカスがかかりますね!ビックリです。Rawでソフトフォーカスをかけられると良いのですが。Rawでかけられるのならソフトレンズは必要ありませんね。ソフトレンズだとボケ方が不安定なので出たとこ勝負の一面があります。

良寛と貞心尼との贈答歌集「はちすの露」から。

  来て見れば 人こそ見えね 庵守(いほも)りて

    にほふ蓮の 花のたふとさ  貞心尼

(意)来て見ると、人は見えないけれど、庵の留守をまもって咲き匂っている蓮の花のすがたの尊いことよ。

  みあへする ものこそなけれ 小瓶(をがめ)なる

    蓮(はちす)の花を 見つつしのはせ  良寛

(意)おもてなしするようなご馳走もないけれど、瓶にさした蓮の花を見ながら、私のことを偲んで下さい。

詞記に「或夏の頃まうでけるに、いづちへか出で給ひけむ見え給はず、ただ花がめに蓮のさしたるがいと匂ひて有りければ 貞心」とあります。意味は「或る年の夏、貞心尼が良寛の庵を訪ねると、庵主はどこかへ出掛けていて、ただ花瓶に蓮の花が挿してあった。そこで貞心尼は蓮の花を『庵守り』と見なして歌を詠んだ」です。良寛と貞心尼は和歌の師弟関係を超え、恋愛関係も超えた心の繋がりがあったのだと思います。

良寛は越後国三島郡出雲崎の旧家橘屋の長男として生まれ18歳で僧籍に入りました。良寛は江戸時代末の和歌や漢詩の世界の巨人の一人だと思います。貞心尼は越後長岡藩士奥村五兵衛の娘で、16歳ごろ一度嫁ぎましたが20代で離別し柏崎で剃髪して貞心を名乗りました。二人が出逢ったのは良寛69歳、貞心尼29歳の時で、良寛が亡くなるまでの5年間はお互いの庵を訪問し親密な交際が行なわれたのだと思います。良寛亡き後、貞心尼は二人の贈答歌を家集「はちすの露」としてまとめました。はちすの露を読むと良寛が子供のように貞心尼と逢う事を楽しみにしていた事が良く分かります。

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2009年7月27日 (月)

日光植物園2

7月19日に日光植物園へ行ってきました。日光植物園の東側は元は田母沢御用邸の敷地でした。古い塀は当時の境だったのだと思います。石灯籠も田母沢御用邸の庭にあったものだと思います。緑の濃い植物園で本園の小石川植物園より自然が残されています。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ500mmF8です。

万葉集から大伴家持の長歌一首と反歌二首。

大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と 任(ま)きたまふ 
官(つかさ)のまにま み雪降る 越(こし)に下り来 
あらたまの 年の五年(いつとせ) 敷栲(しきたへ)の 
手枕(たまくら)まかず 紐(ひも)解かず 丸寝(まろね)をすれば 
いぶせみと 心なぐさに なでしこを 
宿に蒔(ま)き生(お)ほし 
夏の野の さ百合(ゆり)引き植ゑて 
咲く花を 出で見るごとに なでしこが 
その花妻(はなづま)に さ百合花 ゆりも逢はむと 
慰むる 心しなくは 天離(あまざか)る 
鄙(ひな)に一日(ひとひ)も あるべくもあれや

(意)天皇の統治なさる辺境の政庁として、ご任命の官職のままに、雪の降る越の国に下り来て、五年の年月、妻の手枕を巻くこともなく、妻が結んだ紐を解きもせず、一人体を丸めて寝ているので、心寂しい。せめてもの慰めにと、撫子の種を庭に蒔いて育てたり、夏の野の百合を移し植えたりして、咲く花を見に出るたび、「撫子の花のように美しく触れ難い妻に、百合という花の名のように後(ゆり)には逢おう」と、そう思って心を慰めずには、都から空遠く離れた地方で一日でも耐えて過ごせようか。

  なでしこが 花見るごとに 娘子(をとめ)らが

    笑(ゑ)まひのにほひ 思ほゆるかも

(意)なでしこの花を見るたびに、あの娘の笑顔の美しさが思われる。

  さゆりばな ゆりもあはむと したはふる

    こころしなくは けふもへめやも

(意)百合の花ではないが後(ゆり)には逢おうと、ひそかに思う気持ちがなかったら、今日一日たりとも過ごすことなど出来ようか

この歌は天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年(749)5月26日に越中国の国司だった大伴家持が詠んだ歌です。ここで詠われている妻とは従妹で正妻の大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)のことです。ここで詠われている遠の朝廷(とおのみかど)とは普通は九州全域を治めた大宰府を指すのですが、他には東北地方を治めた多賀城に置かれた大和朝廷の軍事拠点の鎮守府や朝鮮半島南部の伽耶にあった(?)任那日本府も遠の朝廷と呼ばれていました。また広い意味で各国の国府も遠の朝廷と呼ばれていました。この歌では継体天皇の本拠地である越の国(越中国)の国府の事を詠っています。越の国とは現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方までの広大な古代の大勢力圏です。この地方は古代朝鮮と非常に強い結びつきがあったと思われます。多分、越の国の支配階級は朝鮮半島出身だと思われ、大和の大和朝廷からは独立した国だったのだと思います。継体天皇は近江国で生まれたと言われ、母の出身地である越の国を治めていた古代大豪族だったと思われます。つまり越の国の大豪族が近江国の豪族達を糾合し大和朝廷の混乱に乗じて大和を攻めて、大和朝廷への入り婿の形で大和朝廷を併合したのだと思います。その手引きをしたのが大和朝廷の大連(おおむらじ)の大伴金村と言われています。第26代天皇の継体天皇は第25代天皇の武烈天皇の妹(姉)であった手白香皇女の婿になることで正当性を持ち天皇として507年に河内国で即位しています。二人の間に出来たの皇子である第29代天皇の欽明天皇の血筋が、現在の天皇まで長く続く事になるのです。継体天皇は即位後に大和に入れるまで20年の時間がかかっています。大和朝廷を構成していた豪族達との連合に20年の時間が必要だったのだと思われます。のちに越の国は越前・越中・越後に分けられました。越前国から能登国・加賀国が分国され、越後から出羽国が分国されました。大伴家持が越中国の国司として派遣されたころは、まだ継体天皇の本拠地として大和朝廷にとっては重要な国だったのだと思います。継体天皇以降の天皇家は越・近江・大和の連合体が中核だったと思います。大和朝廷は南朝鮮の加羅国に領土があったのか、あるいは本貫の地(出身地あるいは本拠)だったのか良く分かりませんが、伽耶(加羅)諸国を新羅国に占領されたために朝鮮半島に出兵をしようとしました。しかしこれに対抗したのが北九州を本拠地とした親新羅国の筑紫君磐井(つくしのきみいわい)です。南朝鮮の利権の争いから大和対筑紫の国家間の争いとなり磐井の乱が起き磐井氏は攻め滅ばされたのだと思います。当然、大伴家持はこのあたりは十分に知っていましたし、天皇家の親衛隊としての大伴氏の末裔として天皇家を守る事が大伴氏の願いだったのだと思います。継体天皇への政権移譲は20年と言う時間をかけてゆっくりと行なわれ入り婿の形式で政権移譲が行なわれたのです。大伴氏は天皇家を守るために存在していたのです。その辺りは万葉集第18巻の大伴家持の陸奥国出金詔書のなかの「海ゆかば」に詠われています。簡単に言えば大伴氏は多くの犠牲を払って天皇のために戦ってきた事を忘れるな、と言う事です。万葉集に載せてある事は大伴氏内部だけではなく他の氏族にも言いたいのでしょうね!
    
    海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
    
山行かば 草生(くさむ)す屍
    
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
    
かへりみはせじ

この歌は大昔から天皇の親兵だった大伴氏が新参の藤原氏に圧倒され徐々に政治の中心から遠ざけられてきた時に大伴氏の一族に大伴氏の由来と使命を諭した家訓の歌です。一般的には大伴氏は天皇家の親衛隊で物部氏は国家軍とも言われていて姓(かばね)は両氏族とも(むらじ)でした。古代では連と臣の姓ははっきりと区別されていました。その区別の訳は昔は連(むらじ)は天皇家に直属する譜代の家来、臣(おみ)は大和朝廷と言う連合政権に協力してきた同格の豪族であると言われていましたが、今では諸説があります。大伴家持は没後すぐに起きた藤原種継暗殺事件(785年)に連座していたとして埋葬を許されず除名されました。後に許されましたが、多くの大伴氏の官人は左遷されたり刑死したりしてほぼ一掃されました。この事件も藤原氏の意に従わなかった桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王(さわらしんのう)を除く事が目的だったのかもしれません。早良親王は淡路国へ流される途中で憤死したと伝えられています。事実は闇の中です。

古代の話は面白いのですが良く分からないところも多いのです。最近は韓国の研究が進み色々な事が分かってきています。

  

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2009年7月26日 (日)

日光田母沢御用邸記念公園1

7月19日に日光の日光田母沢御用邸記念公園へ行ってきました。この御用邸は日光出身の銀行家の小林年保の別邸に赤坂東宮御所に使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部三階建て部分を移築し、他を増設して明治32年に大正天皇が皇太子時代に静養地として造営されました。この御用邸は大正・昭和・今生天皇(現在の天皇)の3代にわたり利用されてきました。昭和22年に御用邸は廃用となり大蔵省の管理になり昭和25年に屋敷地と庭園部分以外の敷地の大部分は東京大学の日光植物園に移管されました。現在は栃木県の管理に移り、記念公園として一部を除いて一般開放されています。この建物内は珍しく写真撮影は自由です。田母沢御用邸の持つ価値として、以下の4点があげられています。
1.江戸・明治・大正時代の建築が融合し、建築学的にも大変貴重であるといわれる。
2.これほど、大規模な木造建築は全国でも数少ない。
3.明治期に建築された旧御用邸のうち、本邸宅に残存するものは旧日光田母沢御用邸のみである。    
4.建築内部に施されている装飾・絵画など、建築全体に文化的価値があるといわれる。

大正天皇の漢詩。

 竹陰読書

 風竹清陰夏尚寒  ふうちくせいいん なつ なお さむし 
 庭前涼月露珠円  ていぜんのりょうげつ しゅえんをあらわす
 半宵静坐燈光下  はんしょうしずかにざす とうこうのもと 
 帝範繙来仔細看  ていはん ひもとききたり しさいにみる

(意)
風にそよぐ竹が涼しい陰をつくり、夏とはいえど、なお寒く、
庭さきから眺める涼やかな月は、珠のように丸い形をあらわにしている。
夜中 静かに灯光の下に坐って、
帝範を繙(ひもと)いて、これを仔細に読む。

帝範とは帝王たるものの規範が書かれた書物の事です。大正天皇は勉強もしっかりとしていたようで、家庭的な帝王だったようです。皇太子時代は皇子達とかくれんぼや肩車をして遊んだと皇子達が証言しています。平和主義者だったようで第一次世界大戦への参戦の詔勅へ署名を躊躇したとも言われ、これが軍部との対立を呼んだともいわれています。大正時代は昭和の激動の前哨でした。大正デモクラシーの中で都市を中心とした大衆文化が成立し、現在の日本文化の基礎が築かれたとも言われ、自由な雰囲気の中で国民の中に大衆との意識が出来上がった時期でした。この中で軍部の台頭に警戒心を大正天皇は持っていたのではないかと思います。もともと体が弱く、自由奔放な性格を持ち拘束される事を嫌う性格で厳しい躾けの学習院にも反発して留年し途中で中退する程でした。大正天皇についてはいまだに解明されていない部分も多く最後は幽閉されたとの見方もあるほどです。大正天皇の漢詩を読む限りでは英邁な君主だと思います。ただし大正6年ごろから漢詩や和歌を詠む回数が減って来たようで大正10年を境に記録されなくなりました。何らかの病状が進んだ可能性もあります。また和歌も明治天皇や昭和天皇と比べて数は少ないですが456首残されていて内容は明治天皇と肩を並べるほどの力量だと言われています。

カメラはソニーα900とシグマ50mmF1.4です。ソニーα900はフラッシュが付いていないので明るいレンズのシグマ50mmF1.4で撮りました。少し重いですが良いレンズですね。良い写りだと思います。

年金の問題で分からないところがあり、まだ申請をしていませんでした。一昨日に後輩の社労士に我が家へ来てもらい色々と相談をしました。つくづく年金制度の不合理・不条理・理解不能を実感しました。本当にいい加減なシステムである事が分かりました。年金問題は8月30日投票の総選挙に大きな影響を与えると思います。これから民主党は年金問題を取り上げるでしょう。結論から言えば専門家でしか理解できないシステムです。舛添大臣も理解しているとはとても思えません。自民党は官僚任せだったのでしょうね。何かここに自民党の議員と官僚に無作為の作為(作為のないふりをした作為)があった事を何となく感じます。なんでこんなシステムになっているのでしょうか。社会保険事務所で一般の人に対応している人は社会保険事務所の職員では無いそうで、対応している人はアルバイトと社労士だそうです。職員は事務所の中に入っていて対外的窓口業務には出てこないのだそうです。文句を言われるのはアルバイトと社労士だと言う事ですね。変な話ですね!私の場合は今年申請するのと来年申請するのとでは色々な加算が付いて、全く貰える金額が違うと言う事が分かりました。普通の給与所得者の場合と私の様な会社経営者の場合は全く違うようです。一昨年、社会保険事務所に相談に行った時に窓口の人、つまり社労士だと思いますが、あなたの場合は今年申請するより後で申請した方が得ですよと言われた意味が、いま初めて分かりました。皆さんも気をつけて良く調べた方が良いですよ!しかし、いい加減な事が行なわれていた、と過去形ではないようで現在進行形ですね!

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2009年7月25日 (土)

浦和くらしの博物館の古代蓮

7月15日のさいたま市浦和くらしの博物館の庭の池に咲く古代蓮です。多分、古代蓮の中の大賀蓮だと思います。この日は前日の朝にルイ君が行方不明になって、まだ発見されていない朝でした。前夜は深夜までルイ君を捜し回りよく眠れず、朝は早くから起きて近所を探し回って疲れ切っていました。朝から気分が乗らず適当に切り上げてしまいました。この日の午後にルイ君発見の知らせが警察から入ってきました。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

蓮は蜂の巣状の花托(花床とも言う花弁が付く平面的なところ)に実が付くのでハチスからハスになったと言われています。根(地下茎)はレンコン(蓮根)と呼ばれます。ヒンズー教の聖典では蓮は繰り返して登場してくるそうです。泥水の中で気高く咲く花、大きく広がり水を弾く凛とした蓮の葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられているのだそうです。仏教では釈迦が蓮の葉の上で瞑想する姿が多く描かれていて極楽浄土の象徴と言われています。人は死後に極楽浄土で蓮の葉の上で生まれ変わるとの考え方があります。そんな事はありえませんがね。これが一蓮托生の語源です。つまりあの世に咲く花なのでしょうか?私は全く宗教を信じていないので良く分かりません。日本ではレンゲとは春に野原や休耕田に咲くレンゲソウと呼ばれる花がありますが仏教ではレンゲとは蓮華または蓮花の事で蓮の事です。寺院へ行くと仏像は蓮華に載っている事がほとんどです。

後撰集から伊勢の歌。

      ほどもなく

    誰もおくれぬ

      世なれども

    留まるは行くを

    かなしとぞ見る

(意)遅かれ早かれやがては誰も死んでゆくこの世だけれども、生きている者は逝く者を悲しいと見るのである。

先日、ルイ君とマリアンちゃんを連れて久しぶりに散歩をしました。ルイ君行方不明事件以来でした。我が家を出たところでルイ君とマリアンちゃんを襲ってきたコーギーと飼い主の奥さんと出逢いました。ルイ君は気が付かないような感じでしたが、マリアンちゃんは今までにないような激しい敵意をコーギーに向けていました。コーギーの飼い主の奥さんはこちらを全く無視して通り過ぎて行きました。ふざけた人ですね!ご近所に立て看板やチラシを播いたのですから挨拶の一つぐらいあってもいいのだと思いますが。全く謝りの言葉もなく無視ですからね!呆れます!

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2009年7月24日 (金)

日光植物園1

7月19日に久しぶりに日光へ出かけました。憾(含)満ガ淵~日光植物園~田母沢御用邸と廻って来ました。日光植物園は正式名称は国立大学法人東京大学大学院理学系研究科附属植物園日光分園です。文京区の小石川植物園の分園です。明治35年に日光東照宮のそばに開園しましたが明治44年現在の地に移転しました。その後、昭和25年に田母沢御用邸の土地の一部が日光植物園へ移管されました。大正天皇は日光の田母沢御用邸に滞在中は毎朝の散歩で現在の日光植物園内の大正天皇御由緒地の碑のある場所を訪れていたそうで帽子掛けの栗の木が残されています。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

大正天皇の漢詩「日光避暑」

      帝都炎暑正鑠金 遠入晃山養吟心
   離宮朝夕凉味足 四顧峯巒白雲深
   有時園中試散歩 花草色媚緑樹陰
   曲池水清魚亦樂 徘徊不知夕日沈

(意)東京の暑さは金属も溶かすほどだ
   遠く日光の山を訪ね詩作の心を養う
   離宮の朝夕はとても涼しい
   見渡せば山々には白雲がかかっている
   園内を散歩する機会があった
   花や草はあでやかで木は緑陰を作っている
   池の水は清らかで魚も楽しそうだ
   歩き回っていると日の暮れるのを忘れてしまった

大正天皇は病に伏せる大正6年頃までの約20年間の間に漢詩を1367首残しています。とても殿様芸とは思えない内容です。歴代天皇の中で断トツの漢詩の数です。漢詩から見ると、とても巷で言われているような暗愚な天皇とはとても思えません。体は弱かったようですが頭脳明晰だったのではないかと思われます。なにか意図的に暗愚な天皇のイメージを作られたのではないかと感じます。やはり偉大な父親の明治天皇と比べられて育てられ、また実母が側室だった事を知らされてショックだったのだと思います。母は皇后であると聞かされて育ったため、「生母が柳原愛子」と言われても、それを信じなかったと言われています。大正天皇が事実上では初の一夫一妻制の天皇で、のちに昭和天皇が一夫一妻制を明文化しました。大正天皇は皇太子時代から朝鮮語を学び、かなり話せたそうです。当時として、征服した民族の言葉を学ぶ事は普通では考えられないですね。また非常に気さくな行動を取り気軽に市民と接触をしたり、お召列車を使わず一般車両で移動したり、街の蕎麦屋に気軽に入ったりしました。また自分の持っている煙草を人に勧めたりして非常に人間的な天皇のようでした。当時の為政者達には日本帝国主義の天皇を神格化する意図があり、開明派の天皇は困り物の天皇だったのでしょう。明治時代からの元勲達との軋轢や色々なストレスが徐々に神経を蝕んできたのかもしれません。なにか今の雅子さんと同じような感じだったのかもしれません。崩御は葉山御用邸で皇后節子(貞明皇后)の配慮で、逢う事を禁じられていた実母の柳原愛子の手を握っての最後だったそうです。不幸な天皇だったのでしょうね。大正10年に暗殺された総理大臣原敬の残した日記「原敬日記」には大正天皇の皇太子時代からの長い付き合いから大正天皇の「気さく」で「人間味あふれる、時にしっかりとした」人柄を書き残しています。確かに大正天皇の残した漢詩を読むとその人柄が偲ばれます。

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2009年7月23日 (木)

伊豆高原 さくらの里のヘメロカリス

7月4日の伊豆高原のさくらの里のヘメロカリス(忘れ草)です。ここは春は全国の桜が植えられていて冬桜から八重桜までかなり長い期間に渡り桜の花が咲いている場所です。山百合も綺麗なのですが7月中旬になれば山百合も咲きだすでしょう。この季節はヘメロカリスがたくさん咲いています。ヘメロカリスとはユリ科でカンゾウやキスゲなどの親戚です。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&x2テレコン&ペンタックス28mmソフトF2.8です。ペンタックスのソフトレンズは変換アダプター経由ですのでAFは効きません。

古今集から紀貫之の歌。

     道しらば

   摘みにもゆかむ

     住の江の

   岸におふてふ

   恋忘れ草

(意)道さえわかれば花を摘みに行きましょう。住之江の岸に生えていると言われている恋を忘れる花を。

忘れ草はカンゾウの事です。野カンゾウは一重で藪カンゾウは八重です。この歌は古今集の墨滅歌です。墨滅歌とは古写本では載っているが墨で消されている歌の事で、流布本では巻末にまとめられて載っている歌の事です。なぜ墨で消されているのかは不明です。

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2009年7月22日 (水)

上野東照宮ぼたん苑の春牡丹5

山口県の大雨の被害は大変ですね!被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。毎年梅雨末期には大雨の被害がでますが、今年は雨の降り方や大風の吹き方が例年と違うように感じます。世界の気象に何かが起きているのでしょうか?

4月18日の上野東照宮の春牡丹です。3か月ほど前の画像ですがやはり牡丹の花は綺麗ですね!カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&70-300mmG&ミノルタ100mmマクロ&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

 立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花

芍薬は真っ直ぐの茎に花を咲かせるので美女の立ち姿、牡丹は横向きの枝から花を咲かせるので座った美女、百合は風を受けて揺れる姿が美女の歩く様子を詠ったものです。江戸時代天明年間に松葉軒東井によって編まれたことわざ辞典「譬喩尽(ひゆづくし)」に記載されているそうです。美人を表す言葉の定番として、もう二百年以上の伝統を誇っています。芍薬は草ですのでまっすぐの茎の先に花を咲かせますので美人の立ち姿。牡丹は木ですので横枝を出して枝の先に花が咲きますので座ったように感じます。芍薬も牡丹も両方ともボタン科です。百合は楚々とした雰囲気と濃艶な香りでしょうかね。

江戸時代は百合の花が日本固有種としても有名で幕末には長崎から日本の百合の球根がヨーロッパへ輸出され、百合は現在のヨーロッパ園芸の主力の一つとしてハイブリッド種等の原型の一つとなりました。これらの最大の功労者は長崎出島に駐在していた医官のシーボルト博士で世界中に日本の固有植物の素晴らしさを本に書きのこしました。日本の百合も薔薇もギボウシもガクアジサイも彼によって世界に知れ渡り世界各国の百合や薔薇と掛け合わされて現在の百合や薔薇やアジサイが生まれ世界のガーデナー達にとって必要とされる花々が生まれました。

シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に同行して江戸城で将軍家斉に謁見し、江戸で日本人学者たちと交流を持ち幕府の天文方・書物奉行高橋景保から国禁の伊能忠敬の日本図の写しを贈られました。これがシーボルトの帰国時に発見されシーボルト事件が起きました。一説によれば幕府隠密の樺太探検で有名な間宮林蔵が密告者だったとも言われています。当時は外国人との私的交流は正式には禁じられていたのですが、実際はかなり交流が行われていて、シーボルトから間宮海峡発見者の間宮林蔵宛ての手紙を間宮林蔵が幕府に届け出たことから事件が摘発されたと言われています。シーボルトは長崎出島で楠本滝と結ばれ娘の楠本イネが生まれました。イネは日本で女性として初めて西洋医学を学んだ産科医で、シーボルトの弟子だった二宮敬作や石井宗謙に産科学を学びましたが、石井宗謙からレイプされたと言われ、イネは石井宗謙から逃れるように長崎で一人娘の楠本高子を生みました。シーボルトは国外追放となりましたが後に日蘭修好通商条約により追放処分が取り消され、日本へ再び戻り幕府の外交顧問となりました。なお近代日本初の公許女医(国家試験合格の女医)は埼玉県妻沼町(現熊谷市)出身の荻野吟子です。

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2009年7月21日 (火)

コテージガーデン・ステファニーの仲夏2

7月12日の栃木県那須烏山市のコテージガーデン・ステファニーです。最近ダリアの種類が増えてきていますね。昔のダリアもなかなか綺麗ですが、最近のは花が大きく艶やかなダリアが増えてきてるようです。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8&ミノルタ500mmF8&タムロン28-200mmです。タムロンのレンズは10年以上前に使っていたレンズです。久しぶりに持ち出しましたが結構使用に耐えられます。街歩きに良いかも知れません。

新古今集から式子内親王の歌。

      夕立の

    雲もとまらぬ

      夏の日の

    かたぶく山に

    ひぐらしの声

(意)夕立を降らせた雲がどこかに消え、夏の太陽が傾いた西の山にかかり、ひぐらしの声が響いています。

色々な夏の風物を詠み込んで蜩(ひぐらし)の声が寂しさを醸し出しているようです。目を瞑るとその情景が目に浮かぶように感じませんか!式子内親王は後白河院の皇女で賀茂斎院として賀茂神社へ奉仕していました。病により退下しました。藤原俊成を和歌の師とし多くの和歌を詠みました。源頼政と共に平家打倒の兵を挙げ敗死した以仁王は同腹弟です。病勝ちであまり社交界には縁が無かったようですが、新古今集の撰者の一人の藤原定家と歌を通じて親交が深く、新古今和歌集を代表する歌詠みの一人です。藤原定家の日記「明月記」に定家が式子内親王のもとを訪れた事が度々記述され、式子内親王亡くなる前は細かな病状を書き記してあるそうです。二人の関係には諸説がありますが現存する資料からでは分からないのです。内親王は定家より13歳の年上でした。また一説には定家が内親王家の家司(家政の取りまとめ役)だったとの説もあります。私は和歌の世界の良きライバルでお互いに刺激を与えあっていた関係で良いのだと思います。

いよいよ今日は衆議院の解散の日ですね。とにかく麻生総理大臣とは不思議な人です。政界が人材不足でなければ総理大臣にはなれなかった人なのでしょうね。国民にとっても自民党にとっても不幸でした。自民党の両院議員懇談会を非公開でするとは意味がわかりませんね。本来は内部の問題なので非公開が筋なのでしょうが、今までマスコミを上手に使って協力させてきた自民党としては不思議な事です。よほど自信が無いのでしょうね。また、舞台回しの出来る人材が枯渇しているのでしょう。麻生総裁としては小泉元総裁のやったように一発逆転を狙う最後のチャンスなのですが、麻生総裁では記者会見での一発逆転は無理だと思います。また国民もかなり賢くなってきています。自民党のメルトダウンが本当に始まったのだと思います。いまだにマニフェストも出せない状態です。選挙公約とは考え方によっては非常にいい加減なものなのですが、非常に大切なものでもあるのです。特に小選挙区制と比例選挙になって候補者としてマニフェストは各政党ごとに一つしか認められず、それを使わないで自分のマニフェストを使うと選挙違反となる可能性もあります。適度の期間を置いての政権交代は国民にとっての利益は非常に大です。今まで隠してきた事が国民の前に明らかにされ、いい加減な事を国会議員も官僚も出来なくなるのです。日本の民主主義のために政権交代は絶対必要なのです。

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2009年7月20日 (月)

6月の我が家の庭とワンちゃん達

6月の我が家の庭とワンちゃん達です。マリアンちゃんはルイ君のヨダレかけを頭から被って遊んでいます。最後の写真は雷が遠くでゴロゴロと鳴り出したところで怯えて台所の隅に隠れているのです。お酒の容器を抱いているのではありませんよ!お酒の容器の陰に隠れているつもりなのです。本格的に稲光と雷が鳴り出すと暗くて狭い場所へ逃げていきます。ルイ君も雷が鳴り出すと落ち着かなくなります。

万葉集から読み人知らずの歌。

      月草(つきくさ)に

    衣(ころも)は摺(す)らむ

      朝露に

    濡れての後(のち)は

    うつろひぬとも

(意)露草で着物を染めることにしましょう。朝露に濡れたあとは色があせてしまってもそれは仕方がありません。私は決心しました。

この歌は古今集にも読み人知らずとしても載っている歌です。この歌の意味は色々と解釈されています。私は女性の歌だと思いますが男性の歌だとすると夜道を通って彼女の家に行くと途中で裾がツユクサに染まってしまうが帰りには朝露でツユクサで染まった裾の色が消えてしまうとも読めますね。翌朝の別れで昨夜の事は忘れてしまうと、プレーボーイの歌のようにも思えます。女性の歌だとすると、恋多き男性と深い仲になる事を決心した歌のようにも見えます。どちらも正解かもしれませんが、良い歌ですね!

我が家のルイ君はやっと元気回復のようです。行方不明事件が先週火曜日でした。ルイ君にとっても家族にとっても大きな出来事で、翌日発見された時は目がドングリのような目をしていました。しばらくは情緒不安定でしたが、昨日あたりから大事件があった事を忘れてしまったような感じで、ほとんど回復してきました。ヤレヤレ一安心です。襲ってきたコーギーとはまだ接触していませんが、散歩中に良く会う犬なので今後が心配です。飼い主も引き綱を放す事は無いでしょうが、今度放したら・・・・!

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2009年7月19日 (日)

コテージガーデン・ステファニーの仲夏1

7月12日の栃木県那須烏山市のコテージガーデン・ステファニーです。今年の関東地方の梅雨明けは7月14日でした。梅雨明けからを盛夏と呼ぶとすると12日は梅雨最後の方で盛夏と呼ぶより梅雨の仲夏と呼ぶべきかもしれないです。ガーデンは夏の花で綺麗でした。タチアオイは終わりかけていましたが、ダリアとユリが最盛期を迎えつつあるところでした。オミナエシも咲き始めていました。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

風雅集から式子内親王の歌。

      すずしやと

    風のたよりを

      尋ぬれば

    しげみになびく

    野べのさゆりば

(意)百合の花の香りを涼やかな風が伝えてくれた。その香りのもとを尋ねて行くと、繁みの中で靡いている野生の百合の花に出逢った。

さゆりとは山百合ではなく笹百合か姫百合と言われています。百合の語源は「揺り」と言われています。緑の夏草の中で大きな白い花が風に揺れてあたりに芳香をふりまく事からユリと呼ばれたと言われています。「さゆり」の「さ」は接頭語だそうです。陰暦五月の田植月つの関係を示すのだそうです。また小さくて可愛いと言う意味があるのでしょう。小百合と呼ばれる百合は存在していないと思います。難しくて分かりません。しかし男から見ると小百合は綺麗で可愛くて純情無垢の感じがします。

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2009年7月18日 (土)

花の都公園2

7月4日の山梨県山中湖村の花の都公園です。白い紫陽花アナベルが綺麗なのですが少し早すぎて緑色の花が多かったです。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。滝などは手持ちで1/25秒で撮りました。オリンパスの手ぶれ補正は優秀です。

万葉集から読み人知らずの歌。

      妹(いも)が名も

    我が名も立たば

      惜しみこそ

    富士の高嶺(たかね)の

    燃えつつわたれ

(意)あなたの名も私の名も、ひとのうわさに立ったら惜しいから、富士の高嶺のように燃えて生きていくのですよ。

富士山は11世紀頃まで激しく噴火を繰り返していたようです。富士山から上がる噴煙を読み込んだ和歌が多数残されています。古代の官道も噴火により道がふさがれ何度も迂回道路を作っています。その後もたびたび噴火を繰り返しています。最近では1707年の宝永の大噴火で関東地方の農家へ多大な影響を残しました。小田原藩領だった富士山の東部はほとんど噴火のための火山灰で農地が埋まり幕府に上知(幕府に土地を返す事)され亡所と認定され、そこに住んでいた農民は棄民されました。棄民とは国家に捨てられた人民の事です。小田原藩は上知の代わりの土地を幕府から与えられましたが、被災地への救援はほとんど行いませんでした。そこで関東郡代だった第7代伊奈半左衛門忠順(ただのり)は農民の救済に全力を尽くし火山灰の取り除きに努力しましたが、取り除いた火山灰が原因と言われる酒匂川の大氾濫がおこり、農民はますます困窮しました。伊奈忠順は伊奈家の保有するお米を救援米として被災地へ運びました。しかしとても足りずに幕府に対し農民の救済を強く働きかけるのですが、亡所となった土地には人が住んでいないとの見解が幕府内に強く、また生憎と幕府内の勢力争いに巻き込まれ農民の救済は進みませんでした。伊奈忠順は駿府に貯蔵されていた幕府の貯蔵米5千俵を無断で被災地へ回送し貧窮した農民に配りました。この事の責任を取って伊奈忠順は病死と届けられていましたが実際は切腹したと伝えられています。この時に貯蔵米を管理していた駿府奉行も切腹しています。以前にもブログに書きましたが、江戸時代の民生を担当した代官や奉行には悪徳な人は絶無でした。江戸時代特に米沢藩主の上杉鷹山伝国の辞
 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして
    我私すべき物にはこれなく候
 一、人民は国家に属したる人民にして
    我私すべき物にはこれなく候
 一、国家人民のために立たる君にし
    君のために立たる国家人民にはこれなく候

と書かれていて、ここから人民との発想が明確に出始めました。役人は人民のために働くとの考え方が中央官僚(幕府)地方官僚(藩)に行き渡ってきました。そのもう一つの例が福島県の二本松城の藩主である丹羽高寛による戒石銘
  爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺
(なんじが俸禄は、民の膏脂である。下民は虐げ易いが、上天は欺き難い)
と天然石の大石に刻まれていて登城してくる藩士が必ずこの戒石銘の前を通る場所に置かれています。江戸時代の幕府の役人や藩の役人は切腹することで自分の失敗を補いました。いまの官僚にそんな人を求めても無理でしょう。そんな人はいないでしょうね!

伊奈氏は忠順の代で関東郡代の職を解かれましたが、その後も度々関東郡代として関東の天領の民生を預かっていました。伊奈氏12代伊奈半左衛門忠尊(ただたか)は関東郡代として天明の大飢饉に関東郡代として鎮静化に努力をしました。南北の両江戸町奉行所が江戸庶民の不満を治められず、江戸で庶民による打ちこわし事件が頻発し、江戸の街が大騒ぎの時に、諸国から米を買い集めて江戸市中に大放出するという方法で、見事に難局を乗り切っています。全国的な凶作の中での米買い集めは難しいと見られていましたが、庶民の味方の伊奈氏を助けようと立ち上がった米商人や回漕業者達が協力して諸国から江戸へ大量の米が運び込まれたと言われています。「伊奈半左衛門(忠尊)は世上の沙汰よろしく、町人ども雌伏いたす」という当時の記述が残されていますが、後に伊奈忠尊は幕府に睨まれ家中内紛のため家事不行届とされ改易されてしまいました。伊奈忠尊の改易後は関東郡代は置かれなくなり、勘定奉行と代官による統治へと変わりました。これにより関東の天領の刑事取り締まりには勘定奉行支配の関東取締出役(八州廻り)が移動治安警察となり村役人や宿場役人と一緒に代官所の下役とともに担当することになりました。関東取締出役は関東一円の天領および私領(寺社領・藩領・旗本領)を横断的に廻り犯罪者を逮捕拘禁する事が出来ました。それまで私領には幕府の役人が勝手に入って被疑者を逮捕する事は出来ませんでした。関東は天領と私領が入り組んでいて犯罪者の逮捕は難しい場合が多かったのです。関東取締出役は日本版FBIですね。ただし水戸藩領だけは入れませんでした。関東取締出役は武士階級ではなく足軽格で代官所の下役が任命される事が多く、勘定奉行の管理も行き渡らず犯罪者と手を組む悪者も多かったようで大迷惑とも言われていました。やはり関東郡代時代の方が郡代の家来と各地の代官が目を光らせていたので不正は少なかったようです。後世の悪代官のイメージは関東取締出役の事なのかもしれません。一代限りの短期雇用で将来に不安があるとすれば持っている権力を使って蓄財に励むのは当然で、現代にも同じような事が起きています。

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2009年7月17日 (金)

古河総合公園の古代蓮3

7月3日の茨城県古河市の古河総合公園の大賀蓮です。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロ&x2テレコン&ペンタックス28mmソフトF2.8です。

古今集から凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)の歌。

      かれはてん

    後をば知らで

      夏草の

    深くも人の

    思ほゆるかな

(意)枯れてしまうことなど考えずに深く繁る夏草のように、離れてしまう事などは考えずに深く深くあの人の事を思い続ける。

『中国国家統計局が16日発表した2009年第1四半期(4~6月)の国内総生産(GDP)成長率は、前年同期比7・9%増と、第1四半期(1~3月)の同6・1%から1・8ポイント上昇した。金融危機で欧米向け輸出が急減速したことなどから鈍化した中国の経済成長だが、昨年11月に打ち出した総額4兆元(約56兆円)の景気刺激策が内需拡大に直結、短期間での「V字回復」につながった』と産経新聞のWeb版に載っていました。皆さんこの話を信じられますか?これも大本営発表のたぐいですね。どうも中国政府の発表は信頼性に疑問があります。外需がダメで内需だけでこんなに急回復するはずはありません。しかし、各国政府や中央銀行はこぞって囃し立てるでしょうね!祈景気回復景気回復!世界の景気はますます悪くなっています。その中で少しでも景気の良い話は大歓迎です。

日本の政界は大混乱ですね。自民党はどうなってしまったのでしょうね?昨日の親麻生Vs反麻生の争う姿は醜いですね。野党の内閣不信任には反対したのに麻生総理を引きずり下ろす動きは訳が分かりません。与謝野・石破両大臣も署名してしまいました。どうするのでしょう。生き残る事に必死で周りが見えていないのでしょうね。生活がかかっていますからね!騙し騙されるのは政治の世界では珍しい事ではないでしょうが、今ここに至って権力闘争をするのは敗戦が決定したドイツのナチスがヒットラーの自殺する前後に演じた醜い後継者争いを見るようです。まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する世界ですね。魑魅魍魎とは人に害を与える化け物の総称です。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえです。自民党はこの際は潔く下野して新体制を組み直して政権交代を目指すべきだと思います。今の自民党の執行部や幹部にはもう政権担当する資質がないと思います。何か醜さを感じます。そのまんま東も酷かったですね。古賀選挙対策委員長も2000年の加藤の乱の時に加藤紘一を嵌めて総裁レースから引きずり落とした男です。今回、加藤紘一に総務会で色々と言われたことでカチンと来たのでしょうね。自分の選挙区の問題もあり執行部から逃げ出すチャンスでもありました。これから自民党村はどう動くのか分かりませんが、大勢は決した様です。とりあえず両院議員総会ではなく緊急集会になるようですが、まるで学生の生徒会の様ですね。今は選挙区へ張り付いて1票でも多くの票を掘り起こさないといけない時です。大変な労力の無駄だと思いますが!これから議員には大切な公認の調整もあり投票日まで1ヶ月半近くあります。政治は一寸先は闇です。何が起こるか分かりません。自民党はレベルもラベルも落ちましたね。民主党も人のふり見て我がふり直せですね

ルイ君は少しづつ元気を回復しています。やはりコーギーに襲われて逃げ出して発見されるまで1日と8時間ほど寂しく怖い思いをしたのでしょう。ひどいショックだったのだと思います。まだ筋肉痛のようです。やっとマリアンちゃんと喧嘩をする元気が出てきたようです。

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2009年7月16日 (木)

浅草寺ほうずき市と合羽橋の七夕

7月10日に浅草寺のほうずき市と合羽橋の七夕を見に行ってきました。浅草寺のほうずき市は7月9&10日に浅草観音をお参りすれば、四万六千日お参りしたのと同じ効果があるといわれ、江戸時代からお詣りが盛んになりました。この縁日に合わせ、境内に約二百軒のほおずき店が並び、入谷の鬼子母神境内の朝顔市(7/6&7&8)と並んで夏の風物詩の一つと言われています。合羽橋の七夕は10日までで一部撤去が始まっていました。毎年、浅草の国際通りと上野の昭和通りを結ぶ合羽橋本通の1.2Kmで行われます。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

後撰集から紀貫之の歌。

      朝戸あけて

    ながめやすらむ

      織女(たなばた)は

    あかぬ別れの

    空を恋ひつつ

(意)朝戸を開けて、織女は眺めているのだろうか。昨夜、牽牛と満たされずに別れた空を慕いながら。

詞書に「七月八日のあした」とあります。7月7日に織姫と牽牛は一緒に過ごしたたのですが、8日の朝は戸をあけて牽牛の去った空を眺めているのでしょう。来年の七夕まで逢えないのです。

昨日はルイ君の大騒ぎで皆様にご迷惑をおかけしました。御蔭様で昨日は無事にルイ君の6歳のお誕生会をする事が出来ました。今回はご近所の皆さんにも大変なご迷惑をおかけしてしまいました。たまに散歩の時にお会いする柴犬のご主人の70歳ほどのご婦人は炎天下の中で登下校時の高校生達に声をかけて頂いていたそうです。また全く面識のない方々も捜索活動に参加していただき感謝にたえません。また、近所に住む私の小学校の同窓生達が失踪した直後に近所の方達に連絡をしていただきました。また2日の予定で1日で終わりましたが探偵社がチラシと捨て看板を多量に撒いてくれました。短時間でよくこれだけの手配が出来たと、かかりつけの獣医さんもビックリしたそうです。ルイ君は家に帰ってきてしばらくの間は家族に対してウ~ウ~と唸っていましたが、今は甘え抱っこをされています。少しびっこを引いていますが検査の結果は異常は無いようです。マリアンちゃんはルイ君が逃げ出してから発見されるまでの1日と8時間ほどの間、家の中で全く走り回る事もなく静かにオロオロとしていましたが、昨夜からは元気に走り回り始めました。我々家族も走り回ったおかげで全員が筋肉痛に悩まされています。特に私は筋肉痛は翌々日に来る年なので今日は歩くのも大変です!これでしばらくは朝の散歩でご近所さんに頭を下げ続けなければいけません。しかし、これほど多くの皆さんが動いてくれるとは思ってもいませんでした。私達夫婦は気が付きませんでしたが可愛いパピオン2頭飼いで有名だったようで、太ったオスのパピオンが犬に襲われて逃げ出したとの連絡網が一気に出来たようです。感謝です!今回は奇跡的にルイ君は無事に発見されたと思います。ここのところの暑さの中でお坊ちゃま育ちのルイ君が、不安と空腹と喉の渇きによく耐えられたと思います。一昨日は家族全員が心配でほとんど眠れませんでした。ルイ君もマリアンちゃんも家族も全員昨夜は熟睡でした。行政からルイ君の失踪の原因が近所のコーギーの散歩の仕方ににあるので行政指導するとの話がありましたが、数軒先の事なので荒立てないでほしいと依頼しました。コーギーの飼い主はご近所の方達から冷たい目で見られたようで反省はしていると思います。

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2009年7月15日 (水)

ルイ君が発見されました。

先ほど15時過ぎに無事ルイ君が発見されました。我が家から1キロほど離れた旧国道沿いのカレー屋さんの物置の床下に隠れていたそうです。どの様にそこまで行ったのかは分かりませんが、その方向だとすると人通りのあまりない住宅街を抜けて車の交通量の多い県道と国道に出ると目撃者がいない事は納得が出来ます。発見時に水は飲んだそうですが餌は受け付けなかったそうです。16時には自宅へ無事帰ってきて、お腹がすいていたようで食事をしているようです。現在ルイ君にマリアンちゃんがペッタリと張り付いているそうです。淋しかったのでしょうね。お騒がせとご心配をおかけしました。とりあえずご報告まで!

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尾島家のクマガイソウ2

4月20日の埼玉県さいたま市御蔵の尾島家のクマガイソウです。他にも色々な花が敷地内に咲いていました。このまま残したいですね。尾島さんはこの土地を維持するために大変な努力をなさっています。敷地への入口に料金箱が2か所置かれています。別に強制ではありませんが気持ちを入れてほしいですね。入場する人の1/3ほどの人が無視して入っていきます。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&x2テレコン&ソフトフィールターです。

玉葉集から永福門院の歌。

      山もとの

    鳥の声より

      明けそめて

    花もむらむら

    色ぞみえゆく

(意)山の麓で寝ていた小鳥の可愛らしい目ざめの声から夜は明けはじめ、花もあちらこちら、ひとむらごとに次第と薄紅の色が見えるようになってくる。

映画で見る春の早朝の美しい景色のようなシーンのようです。こんな感じのCMを作りたかったですね。こう見えても昔は短期間ですがローカルテレビ局でTVCMを何本かプロデュースして作った事があるのです。番組もプロデュースしていました。

永福門院は西園寺家の出身で伏見天皇の女御となり、次いで中宮に上がりました。しかし子供に恵まれず、後の後伏見天皇を養子として育てました。京極派和歌の中心の一人でした。伏見天皇が譲位後に院号を受け永福門院と呼ばれました。伏見院の崩御後は持明院統の家長的立場で養子の後伏見院などを後見しました。永福門院の歌は美しい歌が多いので私は好きです!歴史的に京極派の歌に対する評価が低かったのですが、最近は京極派和歌の玉葉集や風雅集の岩佐美代子氏の研究などで見直されてきています。

K20d9837 さて、昨日朝のワンちゃんの散歩の時に近所人が飼っているのコーギーが散歩の途中で飼い主が手を離したすきにマリアンちゃんを襲ってきました。マリアンちゃんは逃げたのですが、次にルイ君が襲れてしまい組み合った一瞬に胴輪が外れて写真に写っている服を着たままルイ君はその場から遁走しました。400メートルほど後を追ったのですが我が家の100メートルほどの近くまで戻ってきた地点で見失ってしまいました。それから現在まで行方不明です。見失った地点までは目撃者が沢山いるのですが、見失った地点あたりからプッツリと目撃者が現れません。警察や保健所にも連絡し、迷い犬を探す探偵社にも捜索をお願いしました。メタボな犬で全速力で400メートル以上は走り続けるのが出来ないと思われるので不思議なのです。失踪後マリアンちゃんを連れて探しに行ったのですが、マリアンちゃんはルイ君の走った通りに歩き、見失った地点近くで探せなくなりました。普通、犬がそばを通ると近所のワンちゃん達が吠えるのが普通なのですが犬の声を聞きませんでした。見失った地点近くで連れ去られたのかも知れません。近所で犬が車に轢かれたとの情報もありません。心配ですが何処かで生きていてくれればいいのですが!あと数日で6歳になるパピオンでお誕生会をする予定だったのです。家の中がお通夜のようになっています。マリアンちゃんもお兄ちゃんのルイ君が居ないので何か不安げな顔をしています。

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2009年7月14日 (火)

花之江の郷

6月26日の栃木県都賀町の花之江の郷です。ミソハギが咲き始めていました。花菖蒲はほとんど終わりかけ状態でヘメロカリスはかなり咲いていました。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&X2テレコン&ペンタックス28mmソフトF2.8です。

万葉集から防人(さきもり)の他田舎人大嶋(おさたのとねりおおしま)の歌。

      韓衣(からころむ)

    裾(すそ)に取りつき

      泣く子らを

    置きてぞ来(き)のや

    母(おも)なしにして

(意)韓衣の裾に取りすがって泣く子どもたちを置き去りにして来てしまった。母親もいないままで。

他田舎人大嶋は信濃国(長野県)の小県(ちいさがた)郡の人で国造の丁(よほろ-使用人)と言われています。他に詳しい事は分かりません。天平勝宝七年(755)2月に防人として筑紫(福岡県)に派遣され現地で死んだようです。防人は郷戸(ごうこ)を単位として召集されました。郷戸は夫婦と子どもを単位とした複数の房戸(ぼうこ)から成り、親族によって構成されていました。この郷戸は戸主を中心に共同生活をしていました。母親がいなくても一族で助け合いながら生活をしていましたので路頭に迷うことはなかったとは思いますが、それでも母のない我が子がいとおしく、片時も心から離れなかったのだろうと思います。遠く筑紫の地で子供を想って泣いた日もあったでしょうね!

防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかは良く分かっていませんが、一説には東国の力を弱めるためとも言われています。任期は3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替との決まりだったようですが、実際には延長を繰り返されてそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役人が防人達を連れて行きます。もちろん徒歩で駅舎等を経由して武器や食料は自前で北九州まで行くわけで、当時の人たちにとって辛い旅だったと思います。また上手く帰国できる事になっても現地解雇なので帰国費用は自費なのです。帰りたくてもお金がなくて帰ることができない人や、現地で結婚してしまったりして色々な事情で帰れなくなってしまった人たちも多かったようです。また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちも多かったようです。どのくらいの生還率だったかははっきりと記録には残っていませんが、かなり低かったと思います。古代の日本人は国の命令に対しては絶対服従だったようで、防人への徴兵に対して反乱などは記録されていません。今では考えられませんね!留守家族の生活は大変だったと思います。納税の義務は免除されませんので防人で徴兵された人の穴埋めは一族でするしかなく大変だったと思います。その他に各国には常備軍団があり常備軍団への徴兵も負担が多かったと思います。防人は数年間は家に帰れませんが、地方軍団は任期中に家に帰れる可能性がありました。朝鮮の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は国防に大きな力を注ぎ要衝には朝鮮式の城を築きました。また外敵への備えと国内の反乱にも備えるために各国に常備軍を整備しました。古代日本は養老律令の軍防令では正丁(21歳~60歳までの健康な男子)3人に1人を兵士として徴兵すると決められていました。実際はこれより少なく1戸(郷戸)に一人程度だと思われています。兵士の食料と武器は自前で、平時には交代で軍団に上番し警備や訓練に当たりました。平時には国司の管理下に置かれ、標準的な1軍団の構成人員は1千名でした。しかし人口の少ない小さな国は1軍団の兵士の数は2百名単位で少なく編成されました。一方、大きな国は数軍団置かれていたようです。軍団の2百名単位の指揮官は郡司階層がなり郡単位で編成されて各単位は郡衙(郡の役所)の傍に駐屯し5単位で1軍団を構成していたようです。なお軍団最低構成単位は5名で伍長がリーダーでした。

壬申の乱では反乱側の大海人皇子は不破の道(不破の関)を押さえたことで美濃国以東の諸国を押さえ東国の東山道・東海道の国司達が把握していた軍団を動員することで近畿地方の軍団が主力の近江朝廷の大友皇子を攻め滅ぼすことが出来ました。壬申の乱は慎重に周到に計画された古代日本の最大の内乱事件でした。不破の関は壬申の乱後に定められた関所だと言われています。石田三成と徳川家康が戦った天下分け目の関ヶ原の地です。やはり交通の要衝として日本史の重要な二大合戦の舞台で2回とも東軍が勝っています。

合戦と言えば衆議院の解散が決まりました。予約解散とは初めて聞きますね!正々堂々と合戦をしてもらいたいですね。昨日の都会議員選挙の結果について石原都知事が可笑しな事を言っています。朝日新聞のWeb記事によると「『総選挙の前相撲にされ、大迷惑な結果になった』。自民党が大敗した東京都議選について、石原慎太郎都知事は13日、硬い表情で語った。『(告示)2週間前から始めた候補が自民党のエースを破る現象は異常。非常に浮薄な選挙になった』と恨み節も漏らした。支持率低迷が続く麻生首相については『自ら醸し出した人心の離反みたいなのを分からない、空気が読めない、KYか。重い責任がある』と批判。麻生首相で衆院選を戦えるかと問われると『だめだね』と突き放した。 石原都政の不支持との見方については『ちょっと違うんじゃないか』と否定した。築地市場移転など石原都政に反対する姿勢を示した民主党については『責任政党になった。責任がある代案を出してもらわないと都民も納得しないのでは』と話した。」

石原親子は揃って可笑しな人達ですね。KYなのでしょうね。何も分かっていないようです。やはり多数与党の平時の利権を分けあう人達なのでしょうかね。二人とも時代遅れな人達です。この父親が都知事で息子が将来の宰相候補とはガッカリですね。宰相のではなく最小の器の人間達ですね。12日の奈良市長選で民主系の候補が全国の市長で2番目の若さで当選しました。若いから良いわけではないでしょうが、何かが動き始めているのでしょうね!

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2009年7月13日 (月)

高田城祉と小林古径記念美術館

5月4日に新潟県上越市の高田城祉と公園の中の日本画家小林古径の邸宅と小林古径記念美術館です。小林古径は新潟県上越市(旧高田市)出身の日本画家です。小林古径の邸宅で建築家吉田五十八が設計した木造2階建て、数寄屋造りの建物で東京の馬込にあったものを平成13年に高田城址二の丸へ移築しました。小林古径記念美術館は今まで何度も行ったのですが閉館中だったりして、今回初めて入る事が出来ました。庭はボタンとツツジが綺麗でした。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&ソフトフィールターです。

後撰集から読み人知らずの歌。

      吹く風の

    誘ふものとは

      知りながら

    散りぬる花の

    しひて恋ひしき

(意)風に誘われて散るものとは分かっているが、どうして散ってしまった花が恋しいのだろうか。

恋人が他の男のものになったのを悔んでいる歌のようです。後撰集の春歌の中の歌です。どうもこれからの日本の政局を詠っているようにも思えます。

昨日の都議会議員選挙は予想されていましたが民主党が大躍進で自民党・公明党が過半数割れしました。これで石原都政は大変な事になりますね。いままで民主党も石原都政の準与党でした。これで完全に野党化するでしょう。政治の世界では打たれ続けている政権は強いのですが、絶対多数与党でやってきた政権は野党多数となると意外と脆いのです。オリンピックも築地の移転もかなり難しくなるでしょう。新銀行東京も内部を暴かれて火を吹くかもしれません。どちらにせよ、石原都知事はいままでのような勝手な事は出来なくなるでしょうね。もともと気の小さい男ですから、また顔がチックになるかもしれません。オリンピックで都のお金を使うのならもっと弱者救済の社会保障へお金を使えと言う事になって行くでしょう。今日は野党が麻生政権の不信任案を提出するでしょうが、自民党内からの造反が出てくる可能性はあまりないと思います。しかし政治は一寸先が闇です。ここで不信任案を否決すると信任したことになり麻生総理は絶対辞めないでしょうね。中央政界は大混乱です。もう任期満了まで時間がないので自民党内の麻生降ろしの動きに対して麻生総理の逃げ切りとなるのだと思います。選挙が早くなるか遅くなるかは僅か2ヶ月の差です。選挙より自民党内の混乱が面白いですね。お笑い芸人の知事もどうするのか?恥をかいただけかもしれません。メッキが剥がれたんですね。恥を恥と思っていないかもしれません。お笑いを取れて大正解と大誤解しているかもしれません。所詮お笑い芸人です。むかしのお笑い芸人だった大阪府知事と同じです。

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2009年7月12日 (日)

花の都公園1 ポピー畑

7月4日の山梨県山中湖村の花の都公園です。残念ながら富士山は深い雲の中でした。時々晴れ間が出てきてポピー畑が輝いていました。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロです。

劉邦の率いる漢の将軍韓信は自ら30万の兵を率いて10万ほどの項羽が率いる楚軍と垓下(安徽省)で戦いました。初めのうちは楚軍が優勢でしたが、徐々に漢軍が盛り返し、最後には楚軍が敗れました。 敗れた楚軍は防塁に籠り、漢軍はこれを幾重にも包囲しました。夜になり、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆きました。この故事から周囲を敵に囲まれることを「四面楚歌」と言うようになりました。いよいよ最後を悟った項羽は、部下たちと最後の別れの宴席を設けました。項羽は虞美人と呼ばれる愛妾と愛馬の(すい)との別れを惜しんで、この最後の宴席で有名な垓下歌(がいかのうた)を詠いました。

垓下歌  項羽

力拔山兮 氣蓋世  力は山を抜き 気は世を蓋う
時不利兮 騅不逝  時利あらず 騅逝かづ
騅不逝兮 可奈何  騅逝かざるを 如何すべき
虞兮虞兮 奈若何  虞や虞や 汝を如何せん

(意)
力は山を抜き 気は世を覆った。
時に利無く 騅(すい)は進もうとしない。
騅が進もうとしないのをどうすればよいのか、いやどうしようもない。
虞よ虞よお前をどうすればよいのか、いやどうしようもない。

返歌  虞美人

漢兵己略地  漢兵已に地を略し 
四方楚歌声  四方に楚歌の声
大王意気尽  大王意気尽きて           
賤妾何聊生  賤妾(せんしょう)なんぞ生をやすんぜん

(意)
漢の兵士達はすでに楚の地を攻略してしまいました。
四方から楚の国の歌が聞こえてきます。
大王様の意気もすでに尽きられたご様子。 
賎しきこの妾(わたし)がおめおめと生き延びてよいものでしょうか。

項羽の詠った垓下歌に続いて、返歌を虞美人が詠い、その後に項羽と虞美人は涙を流しながら乾杯をし虞美人は剣舞を舞いながら首に剣を刺して自害しました。深夜に項羽は手勢八百騎を率いて漢軍の囲みを破り脱出しましたが、最後は28騎だけとなり項羽たちがかつて秦王朝打倒で決起した江東の地である烏江の渡しにたどり着きました。烏江の亭長(役人)は早く川を渡って江東の地で再起をするように勧めましたが、項羽は江東の地で蜂起した時は8千名を率いて川を渡ったが一人も帰れなかった。いまさら江東の地へは帰れないと言って愛馬の騅を亭長に渡し、生き残りの28騎に下馬を命じて徒歩で漢軍の追手の中に斬り込んで最後は自害しました。これにより劉邦の漢王朝400年が始まりました。漢王朝の皇帝となった劉邦は功臣を次々と粛清し400年の基礎を作りました。

虞美人草はヒナゲシともポピーとも呼ばれます。垓下で自害した虞美人を葬った墓に翌夏に赤くこのヒナゲシの花が咲いたという伝説から虞美人草と呼ばれるようになったと言われています。         

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2009年7月11日 (土)

古河総合公園の蓮2

7月3日の茨城県古河市の古河総合公園です。ここの蓮は古代蓮の大賀蓮です。昭和26年3月、千葉検見川東京大学グランド地下より発見された3粒の蓮の実は、蓮の権威者大賀一郎博士に依り、約2000年前のものと鑑定され、その年の5月発芽し、翌年7月18日見事に開花しました。

カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロ&x2テレコン&ペンタックス28mmソフトF2.8です。

古今集から小野篁の歌。

      水のおもに

    しづく花の

      さやかにも

    君がみかげの

    思ほゆるかな

(意)水面に映っている花の色のように、鮮やかにあの御方の御面影が偲ばれます。

詞書に「諒闇の年、池のほとりの花を見てよめる」とあります。諒闇の年とは先帝の喪に服する年との意味なのですが、嵯峨上皇あるいは仁明天皇のどちらを指すのかは分かっていません。多分、非常に世話になり高く評価してくれた嵯峨上皇の喪の年だと思います。

小野篁は小野妹子の祖父とも言われています。遣唐副使に任命されましたが二度出帆して二回とも難破し三回目の時に遣唐大使の藤原常嗣の船が痛んでいたため船を交換されたため病と申し立て乗船せずに大宰府に留まりました。大宰府において嵯峨天皇を風刺する漢詩「西道謡」を作った為に隠岐に流されました。西道謡がどんな詩だったかは残っていないので分かりません。2年後に許されて都へ戻り後に参議まで登りました。当時の貴族としては珍しく、乗馬、弓術、剣術など武芸百般に秀でていました。そして武芸だけでなく漢詩の分野では「日本の白楽天」と呼ばれたほどの逸材であったと言われ、小野篁の名前は中国の唐の国にも知られていて、遣唐使として唐の都の長安へ来るとの話を白楽天が聞いて逢うことを楽しみにしていたとの話が残されています。

小野篁は毎晩冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物としても知られていました。篁が学生であったときに罪を犯し、藤原良相(よしみ)が篁の弁護をしてくれたので助かりました。篁は参議となり良相も大臣となっていた時に良相は重病となり死の境を彷徨っているときに、閻魔大王の使いの者に捕らえられて、王宮で罪を定められようとしました。よく見ると、閻魔大王のかたわらに篁が座っていました。 篁は閻魔に「この人は、正直で良い人なので、篁に免じて許してあげてくれないか」と言うと、閻魔は「篁がそうと言うのならば、許してやろう」と答え、 良相は生き返ることが出来ました。病が癒えて良相が内裏に行き、篁に会った時に、あのときの閻魔庁でのことを尋ねると篁は「昔、私の弁護をしてくださったお礼をしただけです。他の人には話さないでくださいね」と言たのだそうです。話を聞いて良相はますます篁を恐れ、 「篁は普通の人間ではない。閻魔王庁の臣であった」と皆に話したと伝えられています。このことは自然と世間に広まりって、人々は「篁は閻魔王宮の臣として冥途に通っている人だ」 と恐れたという話で今昔物語集に残されています。同じような話が、大江匡房(まさふさ)の「江談抄」にも記されているそうです。

また、篁が藤原高藤(たかふじ)に車の簾を切られるという事件が起こりました。篁はそのことを高藤の祖父の冬嗣(ふゆつぐ)の家に行って、事情を話していたところ、突然高藤が気を失ったため、篁が高藤を起こすと、高藤は突然篁を拝みはじめ、「気を失って閻魔の庁へ行ったら、篁が閻魔の庁の第二の冥官(みょうかん)として座っていた」と語ったのだそうです。 平安時代、篁は冥府へ通う得体の知れない人物として、人々から恐れられていました。京都の六波羅蜜寺近くの六道珍皇寺境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいます。 寺の裏には篁が冥界へ通っていたといわれる井戸が現存しています。篁は、この井戸から毎晩閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたと思われていました。 嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から毎晩この世に戻って来ていたと信じられていました。しかし面白い人物ですね!

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2009年7月10日 (金)

伊豆高原 一碧湖

7月5日の伊豆高原の一碧湖です。この日の朝はガスが少し出ていてクリアーではありませんでした。朝霧が出ると素晴らしい景色になるのですが!ガスると写真には難しいですね。ニャンちゃんに子供が生まれていました。ボランティアの方達が面倒を見ています。人懐っこい猫で呼ぶと飛んできます。可愛いですよ!ボランティアの方の足元にしがみついている2匹のニャンコちゃんは最初から最後まで足にしがみついていました。何なのでしょうね?彼らはちゃんとした家(小屋)に住んでいて小部屋に分かれています。台風にも大丈夫なようです。行政も黙認のようです。

万葉集から読み人知らずの歌。

      人言(ひとごと)は

    夏野の草の

      繁(しげ)くとも

    妹(いも)と我(あ)れとし

    携(たづさ)はり寝ば

(意)人の噂が夏野の草が茂るようにうるさくても、あなたと私が手をとりあって一緒に寝てしまえば噂なんて関係がありません。

何か大胆な万葉集らしいおおらかな歌ですね。

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2009年7月 9日 (木)

武蔵丘陵森林公園のルピナス2

2ヶ月前ほどの写真になってしまいましたが、5月12日の国営武蔵丘陵森林公園のルピナスです。今年は花付きが大分良いようでした。帰り道でウツギやキンランとユリノキが咲いていました。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8&ミノルタ500mmF8です。

古今集から読み人知らずの歌。

      紫の

    ひともとゆゑに

      武蔵野の

    草はみながら

    あはれとぞ見る

(意)たった一本の紫草のために、武蔵野の草はひっくるめて愛しいと思うのである。

この歌は武蔵野の代表的な花だった紫草を例えにしたもので、一つの人や一つの物が愛おしく思う時に、それに関わったモノ総てが愛おしくなると詠った歌です。今は紫草はほぼ絶滅してしまっていますが、古代は武蔵野の野原を一面にうめていた野草で花は白ですが根は紫根(しこん)と呼んで紫色に糸を染める染料となりました。昭和24年に学者だった昭和天皇は皇后と八王子の多摩陵参拝後に十々里(とどり)古戦場を散策中に偶然に紫草を発見し、その紫草を根ごと抜き取って皇居に持ち帰り移植されたとの話が残っています。それほど珍しい野草となっています。十々里(とどり)古戦場とは武田信玄の武将小山田信茂と滝山城主北条氏照の重臣横地監物が野戦を戦った古戦場です。武田方の大勝利に終わりました。その後に北条氏照の立て籠もる滝山城は武田勝頼に三の丸まで攻め込まれ二の丸での攻防戦では武田勝頼と北条氏照がお互いの手勢を率いて直接戦ったそうです。北条氏照はかろうじて二の丸を守り切ることができました。武田信玄は2万の兵力で小田原城を攻め別働隊として小山田信茂や武田勝頼に小仏峠を越えて滝山城を攻めさせました。北条側は武田軍が小仏峠を通って攻めてくるとは想定していなかったため苦戦を強いられました。当時の北条氏照は甲斐の武田信玄は奥多摩から攻め込んでくると想定していましたが、甲州勢が小仏峠を越えてくる事は想定していなかったので不意を突かれてしまいました。その後、北条氏照は八王子城を築き小仏峠からの甲州勢に備えることになりました。氏照は越後の上杉家の跡目相続での争乱だった御館の乱の時に上杉景勝と戦った弟だった上杉影虎(北条三郎)の救出に越後へ出陣しましたが、影虎を助け出すことが出来ませんでした。豊臣秀吉の小田原攻めの後で秀吉より主戦派と見られ切腹を命じられました。

政治は何かおかしな話になってきましたね。そのまんま東の顔がますます計算高い卑しい男の顔になってきています。嫌ですね!もともと何もない男でお笑い芸人でした。それも女の問題でつまずいて謹慎中でした。閣僚になれば野党から女性問題で叩かれたでしょうね。朝日新聞の宮崎支局の女性記者が東国原知事との会見でかなり激しくやりあったそうです。 http://www.j-cast.com/2009/07/08044951.html 確かに県知事としては宮崎県産品のセールスには功績があったでしょうが、宮崎県内の行政の実績はほとんどないと言われています。県内の企業がかなり潰れ始めているのだそうです。そのために地方分権を叫んでいるのでしょうね。地方分権はこれから当然の流れだと思いますが、その前に地方政治の中の無駄をチェックすべきでしょう。役人の残業代や給食費だけではなく予算の見直しを最初にするべきだと思います。地方分権は煎じ詰めれば国とのお金の分捕り合戦です。小泉改革の目玉だった地方交付税を復活させればいいのです。地方交付税を無くしたのは自民党・公明党でしょう。その自民党に簡単に乗るセンスを疑います。さすがに橋下大阪府知事は賢いですね。彼は身を削る地方自治を実践しています。政治には素人なのに駆け引きを知っています。個人的には大嫌いな男ですが、私は彼を高く評価しています。そのまんま東はやはりバカですね。最初から国会議員になりたくてうずうずしていたところ、小泉政権が長くなってきたので解散総選挙が先延ばしにされてしまい、ちょうど宮崎県知事がスキャンダルで辞めたのでチャンスと見て何も考えずに県知事選挙に立候補をしたのです。やはり県政は旧自治省のキャリアーを副知事にして全部お任せです。やはり芸能人はダメですね。県知事は激務です。テレビに出たり、遊んでなんかいられないはずです。芸能界では売れている今が勝負です。一寸先は闇なのが芸能界です。今が勝負と賭けたのでしょう。自民党に今でしか売れない自分を高く売って比例で自民党の衆議院議員の大先生となるのが夢なのでしょう。所詮、衆議院議員の1/480です。国会議員の歳費と、その気になれば無責任にTVに出続ければギャラが入るのでしょう。良いところに目をつけました。その点は流石だと思いますが、卑しいですね!そんなに国民は馬鹿ではないと思います。今回もまさに古賀選対委員長との出来レース。誰が書いた台本なのか分かりませんが、あまり頭の良い放送作家とは思えません。引き延ばしてタイミングを見て自民党からの出馬宣言でしょう。公明党も付き合わされるのはたまったものではないですね!お気の毒です。

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2009年7月 8日 (水)

古河総合公園の古代蓮1

7月3日に茨城県古河市の古河総合公園の蓮の花を撮りに行ってきました。古河総合公園は春には花桃の花で有名ですが、夏には紫陽花と蓮の花が綺麗です。ここの蓮は古代蓮の大賀蓮です。

古河は室町時代後期から戦国期に古河公方の住んでいたところです。古河公方は関東足利氏として鎌倉に本拠があり鎌倉公方と呼ばれていました。第5代鎌倉公方の足利成氏が室町幕府と争い鎌倉から逃れて古河に本拠を移して後に古河公方と呼ばれほぼ130年間の間古河城を本拠としました。ここ古河総合公園の地は古河公方の館のあったところで古河城は少し離れたところにありました。室町幕府は貞和5年(1349年)関東の統治に鎌倉に鎌倉府を置き将軍家から鎌倉公方を送りこみ、下に補佐役として関東管領および各国の守護・奉行・奉公衆を置き分国統治をさせました。当初は関東の10カ国でしたが後に東北地方の2カ国も加えられ12カ国の統治を任されました。後に5代足利成氏の代になり関東諸国を巻き込んだ大乱となり二つに分裂してしまい足利成氏は下総国古河に逃れてきました。その後、紆余曲折の後に小豪族となってしまいましたが、豊臣秀吉により小弓公方の子供の足利国朝を古河城の氏姫と娶わせて下野国喜連川に所領を与えられて明治維新まで残りました。石高は5千石でしたが10万石の格式で参勤交代を免除され大名とされました。1万石以下で大名は喜連川藩主だけでした。呼び名に御所を許されていました。

カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロ&x2テレコン&ペンタックス28mmソフトF2.8です。

万葉集から長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌。

      蓮葉(はちすば)は

    かくこそあるもの

      意吉麻呂が

    家にあるものは

    芋(うも)の葉にあらし

(意)蓮の葉とはまさにこのように美しいものでなくてはならない。それに比べて意吉麻呂の家のものなんか芋の葉のようなものですよ。

宴会の席で意吉麻呂が戯れに歌ったものだそうです。うちの女房にゃ髭があるのてでしょうね!男ならなんとなくわかる気がしますね。女性から見るとうちの亭主にゃ覇気がないでしょうかね!

中国の新疆ウイグル自治区で暴動が起きていますね。チベットの暴動とは少し違っていますが、民俗紛争ですね。中国共産党の占領下にある両自治区はこれからも紛争のネタは絶えないでしょう。昔、父が元気な時に一緒に内モンゴル自治区へ行った事があります。大草原で馬に乗り夜は満天の星を見てきましたが、驚くべき事に首府のフフホトのデパートで買い物中に漢人のスリの集団に囲まれ父の背広の財布を掏られそうになり、気がついた私がスリの手を叩いたのでスリ集団は何も取らずに逃げだしました。通訳や自治政府の役人達がすぐに駆けつけて来ましたが「不心得者は何処にでもいるので抵抗をすると危険なので今後は気をつけてほしい」と言われました。大草原で初めて馬に乗って散策中にモンゴル人の通訳が傍に寄ってきて「ここの大草原は全部我々モンゴル人の土地だった、漢民族がどんどん増えてきて放牧はダメだと言う。少しづつ、いつの間にかに気が付いたら漢民族に占領されてしまった」と言っていました。非常に勇気のあるモンゴル人の共産党員でした。色々な人がいますね!彼の発言はある意味命がけかも知れません。ちなみに現在内モンゴル自治区の人口の8割は漢民族です。モンゴル族が騒いでもすぐに鎮圧されてしまうでしょう。中国にある各自治区は同じような状態なのでしょう。各自治政府は中国の傀儡政権です。民族の自治と言ってはいますが漢民族による侵略占領です。もっと簡単に言うと自治区は中国の植民地です。民族紛争は絶えることはないでしょう。フフホトの帰りに上海に二泊したのですが、偶然に泊まったホテルが父が戦争中に陸軍の予備役将校で軍属として住んでいた豪邸の前のホテルでした。父がホテルの前に立ち、ホテルの前の森の様な庭のある豪邸を指さして、ここは昔住んでいたところだと言い出しました。私はビックリ!現在は10家族近くの中国家族たちがその屋敷に住んでいるそうです。私は戦後の生まれですが次兄の生まれた家です。当時の上海も日本による植民地でした。どこの国も歴史は繰り返すのでしょうね。数千年も同じことを繰り返しているのです。中国も日本に対してあまり大きなことは言えないはずです。有能な日本の外交官がいればチクチクと中国を突っついてやるところでしょうね。中国共産党にとっては一番触れてもらいたくない問題でしょう。

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2009年7月 7日 (火)

原市沼の古代蓮2

今夜は七夕ですね。幼いお子さんのいる家庭では今夜は七夕飾りでしょうか?我が家も昔は七夕をしていましたが、いつの間にか何もしなくなりました。

7月1日の埼玉県伊奈町と上尾市の境にある原市沼の古代蓮です。この古代蓮は埼玉県行田市で発掘された1300年前の古代蓮(行田蓮)を分けてもらった古代蓮です。綺麗ですね!大賀蓮と行田蓮の違いは私には分かりませんが、どちらかと言うと大賀蓮の方が少し白っぽく、花弁の先が少し赤みが強くなるように見えます。大賀蓮は毎日背丈が伸びて最後の方は脚立の上からでないと花を上手く撮れなくなります。行田蓮は大賀蓮より少し赤みが強いかと思います。背丈も大賀蓮ほど背が高くなりません。同じ種類だとも言われていますが少し違うのではと思っています。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロ&x2テレコンです。

関八州の天領(幕府直轄領)30万石の代官として原市沼の隣に1万石の陣屋を設けた伊奈忠次はこの沼を防衛拠点としました。領地は伊奈町と鴻巣市で合計1万石で大名の末席でした。伊奈氏は信濃伊那の出身で徳川家康の父である松平広忠の家臣となり譜代衆でした。しかし、父親の伊奈忠家が三河一向一揆に加わり家康と敵対し徳川家から離れましたが長篠の戦で陣借りして武功を立てて徳川家へ帰参しました。徳川家康の嫡男の松平信康の家臣として伊奈忠次は父親と一緒に付けられましたが、信康自刃後、再び徳川家を離れ戦国時代から東洋のヴェニスと呼ばれた堺に住んでいました。本能寺の変の直後、堺見物中だった徳川家康が明智光秀の追手を逃れ本国へ帰るための逃避行であった伊賀越えに小栗吉忠に協力して貢献し再び帰参が許されました。徳川家から離れ堺に住んでいたのは偶然なのでしょうか?後に駿・遠・三の奉行で代官頭だった小栗吉忠の同心として活躍し後に小栗吉忠の後を継ぎ代官頭となりました。徳川家康の関東入部後は関東代官頭として関東の治水や新田開発は彼が基礎を築いたと言われています。

北宋の蘇軾(そしょく)の詩。

 水光瀲灔晴方好 すいこう れんえんとして はれ まさによし
 山色空濛雨亦奇 さんしょく くうもうとして あめもまた きなり
 欲把西湖比西子 せいこをとって せいしに ひせんと ほっすれば
 淡粧濃沫總相宜 たんしょう のうまつ すべて あいよろし

(意)さざなみを浮かべて広がる湖水の光は、晴れた日こそ美しい。霧のように山をつつんだ雨の景色もまた格別の眺めである。この西湖をあの西施にたとえてみれば、薄化粧でも厚化粧でも似合うように、西湖は晴れても雨でも、趣があってよい。

西施とは王昭君・楊貴妃・貂蝉と並んで中国古代四大美人と言われています。紀元前5世紀ごろ越王勾践が呉王夫差へ復讐のために贈った美女軍団の一人で絶世の美女と言われ呉王夫差は彼女の魅力の虜になり呉国を弱体化させられ、ついに越王勾践が呉国を滅ぼしましたと言われています。会稽(かいけい)の恥あるいは臥薪嘗胆のことわざの語源になった物語で有名です。広辞苑によると『春秋時代、越王句践が呉王夫差に敗れ、会稽山に逃げ込み、屈辱的な講和をしたという故事による。呉王夫差はこの時、臣下の伍子胥(ごししょ)の強い反対を押し切り、越王の句践を許してしまう。こうして赦免された越王は「会稽の恥」を忘れるものかと、苦節十数年「臥薪嘗胆」の日々を送り、呉王夫差が中原への進出に食指を動かし始めたその隙をついて呉に攻め入り見事宿願を果たしたのである。呉王夫差は伍子胥に会わせる顔がないといって自害した。なお、その恨みを晴らすことを「会稽の恥を雪ぐ(すすぐ)」という』

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2009年7月 6日 (月)

コテージガーデン・ステファニーの初夏2

6月26日の栃木県那須烏山市のコテージガーデン・ステファニーへ行ってきました。タチフアオイ、ダリアや百合が咲きだしていました。オミナエシも咲きかけていました。

藤原家隆の家集「壬二集」から。

      むら雨の

    風にぞなびく

      あふひ草

    向ふ日かげは

    うすぐもりつつ

(意)村雨を吹き寄せる風になびく、葵草。その花が顔を向けている太陽の光は、雨雲にうっすらと覆われてゆく。

あふひ草とタチアオイの事です。タチアオイはトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種の雑種とも言われています。背丈は2メートル程になります。昔は「唐葵(からあふひ)とも呼ばれ、枕草子に『唐葵、日の影にしがたひてかたぶくこそ、草木といふべくもあらぬ心なれ』とあります。日本への伝来の時期は分かりませんが平安初期には日本に伝来してきていたのだと思います。遣唐使が中国から薬草として種を持ち帰って来た可能性が高いと思います。我が家の駐車場にも鳥が持って来たのか何時の間にかにタチアオイが咲いています。

昨夜は、保守王国の静岡県の県知事選挙で民主系候補が僅差で自民系候補を上まわって勝ちました。民主系が二つに割れての勝利です。これは国政に強烈な一発となりました。川勝新知事は極右の考え方を持った学者です。極右の思想をもった学者を民主党が担ぎ出したところが面白いと言えば面白いですが、何か納得が出来ません。しかし、自民党へのダメ出しと見れば今週末の都議会議員選挙への影響は測り知れないでしょう。これで麻生降ろしが本格的に動き出し、来週は自民党内は麻生降ろしで大騒ぎとなり、自民党の新総裁が総理大臣となってマスメディアを上手く使って任期満了選挙となるでしょう。自民党大混乱を国民がどのように判断するかは投票行動で現れるでしょう。麻生総理はバチカンでローマ法皇と会見するのが最後の大きなイベントとなるでしょう。クリスチャンの麻生総理にとって日本の総理大臣としてローマ法皇との会見することは非常に大切なことなのでしょう。日本国民にとってはまったく関係ありません!

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2009年7月 5日 (日)

鎌倉 海蔵寺

6月12日の鎌倉の海蔵寺です。北鎌倉の長寿寺を過ぎて右折して亀ヶ谷坂切り通しを抜けて海蔵寺へ入りました。長寿寺は以前は非公開でしたが最近日時時間限定で公開されるようになりました。この日も特別公開でしたので入ってきましたがデジタル一眼禁止で普通のデジカメはOKなのが不思議な感じがしました。庭園などは非常に綺麗でした。海蔵寺は花の寺とも呼ばれる花が綺麗な寺院です。最後の写真は海蔵寺の山門前の鎌倉十井の一つ「底脱の井」(そこぬけのい)です。「千代能(ちよの)がいただく桶の底ぬけて 水もたまらねは月もやどらず 如大禅尼」と刻まれた石碑が建っています。安達泰盛の娘千代能(一説には上杉の尼)が参禅した時に、この井戸の水を汲むと桶の底が抜けてしまった。この時、心の中にあった煩悩が氷解し、悟りの境地に達したというのである。海蔵寺は建長五年(1253)に鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。室町時代の応永元年(1394)になって、関東菅領・足利氏満の命により執事の山内上杉憲定が再興。薬師如来を本尊とする大寺で盛時には谷戸一帯に塔頭が立ち並ぶ程でしたが、今はことごとく廃絶してしまいました。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mm&28mmソフトF2.8です。

竹風和歌抄から宗尊親王の歌。

      虎とのみ

    用ゐられしは

      昔にて

    今はねずみの

    あなう世の中

(意)虎とばかりに畏れられる地位に置かれたのは昔のことで、今は鼠が穴に潜むように逼塞している。ああ無情な世の中よ。

宗尊親王は後嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府の第5代執権北条時頼の懇願により初めて皇族出身の鎌倉幕府第6代将軍として建長四年(1252)鎌倉へ下向しました。文永三年(1266)に鎌倉幕府に対して謀反を企てたと濡れ衣を着せられ都へ返されてしまいました。明確な理由は分かりませんが北条氏への不満が御家人達に多かったためと思われます。都へ入るときに輿に乗せられ都へ背中を向けて入京させられたそうで、何か大きな理由があったのかも知れません。父親の後嵯峨天皇は鎌倉幕府への遠慮から宗尊親王を義絶までしました。この歌は鎌倉から返されて都で逼塞していた時の歌です。鎌倉幕府の将軍は4代・5代は五摂家の一つ九条家から送られてきましたので摂家将軍と呼ばれましたが、2人とも謀反の疑いで都へ追放されました。6代目の宗尊親王が初めての皇族将軍でした。鎌倉時代は御家人達と結び付いた北条氏内部の権力闘争も激しく、また北条氏を打倒しようとする御家人達の動きも激しかったのですが、次々と北条得宗家に攻め滅ばされました。少しでも疑われると予防的にすぐに理由をつけて殺される恐ろしい時代でした。攻め滅ぼされた御家人等の荘園は攻め滅ぼすのに功績のあった者達の分け取りでした。そのために北条氏は勢力を伸ばし領地を増やしてこられたのです。それが御家人達の不満となり後醍醐天皇の建武の新政へ、そして足利尊氏の室町幕府へと続くのです。

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2009年7月 4日 (土)

野尻湖畔

6月6日の長野県信濃町の野尻湖畔と信濃町の柏原です。柏原は小林一茶が生まれて死んだ場所です。小丸公園に俳諧寺や小林一茶の墓があります。野尻湖はバス釣りで賑わっていますが静かな湖です。形が芙蓉の花に似ていることから芙蓉湖とも呼ばれています。ナンマンゾウの骨が出土することでも有名で骨と一緒に旧石器時代の石器も一緒に発見されました。旧石器時代にナンマンゾウを仕留めて食べ物にした旧石器人が野尻湖周辺に住んでいたのでしょう。野尻湖は天然湖としては長野県で諏訪湖に次いで2番目の面積です。今は営業を止めましたが野尻湖を見晴らせる一番の場所に野尻湖ホテルがありました。美智子妃殿下が一時体調を崩されたときに極秘で野尻湖ホテルに長期間滞在をしていたのが最近公表されました。当時は我々には知らされずお茶を飲みに寄る人達は黒服を着た男達に追い返されました。私達も追い返されたことがあります。当時皇太子だった今の天皇も度々お忍びで野尻湖ホテルへ来ていたそうです。しかしこの秘密は完璧に守られていて最近この事実が明らかにされました。野尻湖は軽井沢が俗化してきたので自然の宝庫ともいえる野尻湖畔にカナダ人宣教師たちが1920年に軽井沢から野尻湖畔へ移ってきました。昔は山の軽井沢・湖の野尻湖・海の高山(宮城県七里ヶ浜)と呼ばれ日本三大外国人避暑地として有名で毎年夏の休みに外国人達が集まって仕事の情報や家族の情報交換をしたと言われています。通信手段が無い時代は貴重な顔を合わせる場だったのでしょう。現在、国際村として多くの外国人の方や日本人の方が夏を野尻湖畔の北斜面で過ごします。野尻湖畔の南傾斜には野尻湖グリーンタウンがあり多くの日本人の別荘があります。我が家の別荘も野尻湖グリーンタウン内にあります。40年ほど前までは別荘から左下に野尻湖が見え、左から飯綱山・黒姫山・妙高山の三山が正面に見えましたが、今は樹木が生い茂り殆ど見えなくなってしまいました。野尻湖畔は夏の日中は非常に暑く夕方から急激に温度が下がってきます。冬は豪雪地帯ですので一晩で1メートル程積もる事もあります。昔12月24日の夜から粉雪が降り始めホワイトクリスマスだと喜んでいたのですが、25日朝に自宅へ帰ろうと思い外を見たところ車が一晩で雪に完全に埋まってしまい、管理センターへ車の引き出しと道路の除雪を依頼しましたが、車を引き出せたのは夕方になってからでした。秋の紅葉は素晴らしく本当に綺麗ですが、なかなか紅葉のタイミングが合いません。野生生物も沢山います。この日も別荘の家の前の道路で隣人と立ち話をしていたところ30メートルほどの先の道路でキツネがビックリした顔をして此方を見ていました。リスも野鼠も狸も沢山住んでいます。家の中に野鼠が入ってきてドングリなどを置いて行きます。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

 やせ蛙(がへる) まけるな一茶 これにあり

 雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る

 われと来て 遊べや親の ない雀

 名月を 取ってくれろと なく子哉

 ふるさとや 寄るもさはるも 茨(ばら)の花

 故郷は 蠅まで人を 刺しにけり

小林一茶の俳句です。最後の二句は故郷の柏原に帰ってきた一茶の会う人達はことごとくトゲのある茨の花のようなもので、誰ひとり自分を暖かく迎えてはくれない、また故郷の蠅まで私を刺すほど冷たいと詠ったものです。

小林一茶はあまり評判の良くない人だったようで、父親の遺産を継母と弟との間で12年間も揉め続け51歳の時に話し合いでやっと解決をしました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳で亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再びゆきと結婚をしたのですが半年で逃げられてしまいました。その後再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。自分の娘のような女性を好んで何度か妻として迎えたのですが逃げられたりしてあまり幸せではなかったようです。地元では父親の遺産争いや女性を好む事から評判は非常に悪かったようです。助平爺と呼ばれていたそうです。小林一茶の日記には異常とも思われる毎夜のようなHの回数をまめに記録しています。2番目の妻ゆきは飯山藩の武家の娘で62歳の一茶と38歳のゆきとの結婚でした。日記によると初夜では5回交合すと記録され、あまりの一茶の強精に妻は逃げ出したと言われています。男ですから見栄を張っているのなら分かりますが、見栄ではなかったようです。

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2009年7月 3日 (金)

原市沼の古代蓮1

7月1日に埼玉県の伊奈町と上尾市の境にある原市沼の古代蓮へ行ってきました。昨年も7月1日に原市沼へ行っています。ここの古代蓮は行田の古代蓮から種を貰って来て地元などのボランティアの方達によって栽培育成されています。年々規模が拡大してきました。ここは徳川家康が関東入部以来譜代として関東代官頭(後の関東郡代)として関八州の幕府領における徴税・行政・司法を統括した代官で警察権も持っていた伊奈忠次の領地でした。原市沼は初代伊奈忠次の居城の小室陣屋(伊奈陣屋)の隣にある沼でした。伊奈陣屋は1万石で埼玉県の伊奈町と鴻巣市に領地をもつ大名の居城でしたが関東郡代として30万石の天領(幕府領)を支配する要職で、城構えは数万石大名並みの構えだったようです。防衛拠点として南と南東側の昔からあった大きな沼と湿地帯を利用したようです。このあたりは昔から戦後までレンコンを採るために蓮が植えられていました。その後、レンコンの採取は終わってしまい荒れた湿地帯でした。原市沼の復活と保存のために行田で発見された古代蓮の種を分けてもらいボタンティアの手で何度もの失敗を乗り越えて現在の広大な古代蓮畑となりました。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロ&x2テレコン&ペンタックス28mmソフトF2.8です。ペンタックスのソフトレンズはオリンパス用のアタッチメントを着けています。MFになりますので距離の合わせ方が難しいです。

万葉集から読み人知らずの歌。

 み佩(はかし)を 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちすば)に
 溜(た)まれる水の ゆくへなみ 我がする時に 逢ふべしと
 逢ひたる君を な寐(い)ねそと 母聞こせども
 我が心 清隅(きよすみ)の池の 池の底
 我れは忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに

(意)剣の池の蓮の葉にたまっている水が、どちらにあふれていくか分からないように、私は先の見通しがつかず迷っていた時に、逢えるだろうと占いに出たのです。愛しい方なのに、お母さんは、あの人に身を任せて共寝などしてはいけないと言いますが、でも、清澄池の底が深いように深く思い、決して忘れはしない、直接逢うまでは。

万葉長歌です。この恋の行方はどうなったでしょうね。この歌が詠われた時は既に共寝をした後なのかもしれません。母親が反対するところをみるとトンデモナイ男なのかもしれません。万葉集には意外と直接的な歌があります。

政治はレベルの低い話になってきていますね。口先だけ男の世界になってきたようですね。それは置いておいて、それより一昨日の社会保険庁の記者発表無年金者の1割約3万人が受給資格ありにはビックリさせられましたね。朝日新聞の記事です。
http://www.asahi.com/national/update/0702/TKY200907010424.html
安倍元総理は何て言いまっしたっけ?厚生労働大臣の舛添は何って言いましたっけ?官房長官候補?幹事長候補?みんな口先男ですね!最近、私も物忘れが激しくって直ぐに忘れてしまうのですが。昨日の年金積立金管理運用独立行政法人の記者発表の年金積立金08年度の損失が9兆6670億円にも金額が大きすぎてビックリさせられました!それでも誰かは運用で儲けているのでしょうね。誰でしょうね?
http://www.asahi.com/national/update/0701/TKY200907010284.html
年金は本当に大丈夫なのでしょうかね?

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2009年7月 2日 (木)

行田市 古代蓮の里2

6月19日の埼玉県行田市の古代蓮の里と小埼沼(おさきぬま)です。小埼沼とは現在は本当に小さな池となっていますが、古代の万葉の時代は大きな沼で巨大な埼玉沼の一部だったのかも知れません。昭和50年ごろまでは小針沼と呼ばれる沼があったようです。宝暦3年(1753)に忍城主、阿部正因によって建立された碑が建っています。碑の内容はこの場所が小埼沼に違いないとの内容です。小埼沼については諸説があり現在でも確定はされていません。羽生市尾崎(利根川右岸)や岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)等が小埼沼の候補地として挙げられています。しかしこの行田の小埼沼は武蔵国造家だった笠原氏のさきたま古墳群から東に2.5キロ程の地にあり古代の埼玉の津(さきたまのつ)と呼ばれた利根川か埼玉沼の河港の近辺にあったと思われます。

行田は戦国末期に有名になった成田氏の居城で豊臣秀吉の小田原征伐の時に別働隊として石田三成に2万7千の兵を指揮させて群馬県方面から小田原城へ向けて攻め込ませたのですが、忍城の強硬な抵抗により石田三成は忍城で止められてしまいました。忍城を水攻めしたのですが、逆に堤を切られたために寄せ手に多くの犠牲者を出してしまいました。浅野長政等の援軍を得て3万数千の軍勢で攻め立てました。忍城の主力は城主の成田氏長とともに小田原城に立て籠もっていたため、城主一族の成田長親を大将として留守部隊と近在の農兵の3千数百だけの籠城となりました。攻防戦は長引き小田原城が開城しても戦い続け、城主の開城を命ずる手紙が届くことにより開城しました。小田原の北条氏方の城で一番最後に豊臣秀吉に降った城でした。城主の成田氏長は小田原城に籠城する前から徳川家康に降伏の意思を示していたようですが、忍城に籠城していた成田長親等の坂東武者の意地が最後まで強硬に抵抗させたのかも知れません。籠城の大将だった成田長親は一族の中でも最も無能と見られていた人物のようで、小田原城へ籠城していた城主の成田氏長は忍城は適当に戦って降伏するものと思って主力部隊を率いて小田原へ行ったようです。しかし意外や意外、成田長親は短期間のうちに弱小と見られた籠城の兵士たちを一つにまとめ上げ最強の兵士に仕立てあげてしまいました。石田三成の力攻めにも負けず、水攻めにも屈しませんでした。成田氏長の戦後は会津の蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられ客将として伊達政宗の勢力と対峙し蒲生氏の危機を救ったこともありました。会津時代に成田氏へ付けられた蒲生氏の与力が伊達氏に内通し戦となり、その戦いで女性ながら武勇を表した娘の甲斐姫が後に豊臣秀吉の側室となり、下野烏山城2万石に取り立てられ大名となりました。忍城の籠城戦を戦った成田長親は烏山まで付いて行きましたが、烏山で城主の成田氏長と理由は分かりませんが大喧嘩をして屋敷に引き籠りました。城主の氏長は処理に手古摺り、結果は城主が謝ることで収めました。やはり忍城の戦いぶりが一時は不利益になりましたが、後に強固で強力な武士団の御蔭で大名に復帰できたので城主といえども功名のあった一族を無視できなかったのでしょう。成田氏はその後は徳川家に仕え、氏長の弟である長忠が継ましたが次の後継争いから改易とされました。

江戸時代の忍城主であった阿部正因が小埼沼に建てた碑に記されている万葉集から2首。

 埼玉(さきたま)の 津に居る船の 風をいたみ

   綱は絶ゆとも 言な絶えそね (読み人知らず)

(意)埼玉の津に繋いである船の舫い綱が、風が烈しくて切れるようなことがあっても、あなたからの便りは絶えないで欲しい。

この歌は男から女に贈った歌なのか女から男に贈った歌なのかが分かりません。古代は男から女への通い婚でした。女から男に贈った歌のように見えます。

 埼玉(さきたま)の 小埼(おさき)の沼に 鴨ぞ羽根きる

  己が尾に ふる置ける霜を 払ふとにあらし (高橋虫麻呂)

(意)埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばす。自分の尾に降り置いた霜を掃いのけようとするのらしい。

この歌は577577の旋頭歌です。高橋連虫麻呂は経歴がはっきりしていませんが藤原宇合(うまかい)の個人的な部下だったと思われます。藤原宇合が常陸守として赴任した時に随行していったようで常陸風土記の編纂に関わったとも言われています。主に旅先での歌が多く宮廷歌人とは全く違う詠い方のようです。この歌も古代の武蔵国にあった21郡の一つ埼玉郡(さきたまぐんorさきたまのこおり)の役所に高橋連虫麻呂が公務で訪れたときに郡役人の求めに応じて詠われたようです。古代の埼玉郡の役所はどこにあったか分かっていません。

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小埼沼

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2009年7月 1日 (水)

加須市 浮野の里

6月19日に埼玉県加須市の多門寺の浮野の里へ行ってきました。浮野の里は国土交通省土地・水資源局の全国「水の郷」百選に認定されています。関東地方の平野部は昔から河川の氾濫に悩まされた土地です。私の父の実家は加須市にありますが昔はどの家でも必ず家の中に小舟が一艘置いてありました。父の実家に遊びに行くと子供心になぜ舟が天井からぶら下げられているのかが不思議でした。利根川と荒川は度々洪水をおこし田畑を流し江戸市中まで水浸しにした洪水は度々ありました。明治になっても洪水は治まらず明治43年の大洪水は8月1日から大雨が降り続き10日には暴風雨となり利根川・荒川の両河川の堤防が決壊し埼玉県の平野部は完全に水没し、東京にも流れ込み泥海の中で舟でしか交通の手段がない時期が続きました。東京で水が完全に上がったのは12月になってからと伝えられています。昭和22年のキヤスリン台風襲来は空前の大洪水となり、利根川東村の堤防決壊のため大洪水となりました。また翌年の昭和23年のアイオン台風により再び大洪水となりました。これらの洪水を教訓として日本政府は利根川・荒川の河川の改修に力を注ぎ続けてきました。現在は洪水になる事はありませんが20年ほど前に荒川の水位が警戒水位を超えたときがあり、あと少しで浦和市内に荒川の水が入ってくるところでした。現在は埼玉県の南部地域に荒川の遊水池が設けられ都内の洪水を防ぐ色々な手立てが考えられています。しかし、大自然を相手では完全とは言えないと思います。

太平記によると源平時代に源氏の長者であった源頼政が鵺(ぬえ)退治の功あって褒美を賜る時、源頼政がかねてから菖蒲(あやめ)の前という女官に思いを寄せていることを知っていた鳥羽院が、ちょいとしたいたずらをしました。12名の美しい女官に同じ衣装を着せて薄絹の陰に並ばせ、いづれが菖蒲の前であるかを見極めたら菖蒲の前を源頼政へ与えようと申し出ました。しかし、美人ばかりで見分けがつかず困っている源頼政を見て女官が「水かさが増せば浅香の沼の菖蒲も見分けにくいこともあるでしょう。」と言ったところ、頼政はこれは難儀な事と言うかわりに、歌で答えました。

      五月雨に

   沢辺の真薦(まこも)

     水越えて

   いづれあやめと

   引きぞわづらふ

同席していた近衛関白がいたく感じ取って菖蒲の前の袖を引いて「これがそちの妻じゃ」と教えたとのお話です。源頼政は菖蒲の前を連れて屋敷に帰ったのです。このお話から「いずれアヤメかカイツバタ」の語源と言われています。この歌の意味は「五月雨に水が増えてしまってどれが菖蒲だか分からなくなってしまいました」との意味です。「引きぞわづらふ」は織物の模様のあや目の何処の糸を引けばいいのか分からないとの意味です。

この歌は源平盛衰記では 
   五月雨に 沼の石垣 水こえて
     
いづれあやめ 引きぞわづらう
となっています。「いずれあやめかかきつばた」が正しいのか「いずれあやめかかきつばた」?皆さんはどちらで覚えていますか。私は「いずれあやめかかきつばた」です。源頼政が平家打倒の兵を挙げ宇治で敗死した後、菖蒲の前は伊豆まで逃げ延び尼になったと伝えられています。菖蒲の前の伝説は日本各地で語られています。

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