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2009年7月 2日 (木)

行田市 古代蓮の里2

6月19日の埼玉県行田市の古代蓮の里と小埼沼(おさきぬま)です。小埼沼とは現在は本当に小さな池となっていますが、古代の万葉の時代は大きな沼で巨大な埼玉沼の一部だったのかも知れません。昭和50年ごろまでは小針沼と呼ばれる沼があったようです。宝暦3年(1753)に忍城主、阿部正因によって建立された碑が建っています。碑の内容はこの場所が小埼沼に違いないとの内容です。小埼沼については諸説があり現在でも確定はされていません。羽生市尾崎(利根川右岸)や岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)等が小埼沼の候補地として挙げられています。しかしこの行田の小埼沼は武蔵国造家だった笠原氏のさきたま古墳群から東に2.5キロ程の地にあり古代の埼玉の津(さきたまのつ)と呼ばれた利根川か埼玉沼の河港の近辺にあったと思われます。

行田は戦国末期に有名になった成田氏の居城で豊臣秀吉の小田原征伐の時に別働隊として石田三成に2万7千の兵を指揮させて群馬県方面から小田原城へ向けて攻め込ませたのですが、忍城の強硬な抵抗により石田三成は忍城で止められてしまいました。忍城を水攻めしたのですが、逆に堤を切られたために寄せ手に多くの犠牲者を出してしまいました。浅野長政等の援軍を得て3万数千の軍勢で攻め立てました。忍城の主力は城主の成田氏長とともに小田原城に立て籠もっていたため、城主一族の成田長親を大将として留守部隊と近在の農兵の3千数百だけの籠城となりました。攻防戦は長引き小田原城が開城しても戦い続け、城主の開城を命ずる手紙が届くことにより開城しました。小田原の北条氏方の城で一番最後に豊臣秀吉に降った城でした。城主の成田氏長は小田原城に籠城する前から徳川家康に降伏の意思を示していたようですが、忍城に籠城していた成田長親等の坂東武者の意地が最後まで強硬に抵抗させたのかも知れません。籠城の大将だった成田長親は一族の中でも最も無能と見られていた人物のようで、小田原城へ籠城していた城主の成田氏長は忍城は適当に戦って降伏するものと思って主力部隊を率いて小田原へ行ったようです。しかし意外や意外、成田長親は短期間のうちに弱小と見られた籠城の兵士たちを一つにまとめ上げ最強の兵士に仕立てあげてしまいました。石田三成の力攻めにも負けず、水攻めにも屈しませんでした。成田氏長の戦後は会津の蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられ客将として伊達政宗の勢力と対峙し蒲生氏の危機を救ったこともありました。会津時代に成田氏へ付けられた蒲生氏の与力が伊達氏に内通し戦となり、その戦いで女性ながら武勇を表した娘の甲斐姫が後に豊臣秀吉の側室となり、下野烏山城2万石に取り立てられ大名となりました。忍城の籠城戦を戦った成田長親は烏山まで付いて行きましたが、烏山で城主の成田氏長と理由は分かりませんが大喧嘩をして屋敷に引き籠りました。城主の氏長は処理に手古摺り、結果は城主が謝ることで収めました。やはり忍城の戦いぶりが一時は不利益になりましたが、後に強固で強力な武士団の御蔭で大名に復帰できたので城主といえども功名のあった一族を無視できなかったのでしょう。成田氏はその後は徳川家に仕え、氏長の弟である長忠が継ましたが次の後継争いから改易とされました。

江戸時代の忍城主であった阿部正因が小埼沼に建てた碑に記されている万葉集から2首。

 埼玉(さきたま)の 津に居る船の 風をいたみ

   綱は絶ゆとも 言な絶えそね (読み人知らず)

(意)埼玉の津に繋いである船の舫い綱が、風が烈しくて切れるようなことがあっても、あなたからの便りは絶えないで欲しい。

この歌は男から女に贈った歌なのか女から男に贈った歌なのかが分かりません。古代は男から女への通い婚でした。女から男に贈った歌のように見えます。

 埼玉(さきたま)の 小埼(おさき)の沼に 鴨ぞ羽根きる

  己が尾に ふる置ける霜を 払ふとにあらし (高橋虫麻呂)

(意)埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばす。自分の尾に降り置いた霜を掃いのけようとするのらしい。

この歌は577577の旋頭歌です。高橋連虫麻呂は経歴がはっきりしていませんが藤原宇合(うまかい)の個人的な部下だったと思われます。藤原宇合が常陸守として赴任した時に随行していったようで常陸風土記の編纂に関わったとも言われています。主に旅先での歌が多く宮廷歌人とは全く違う詠い方のようです。この歌も古代の武蔵国にあった21郡の一つ埼玉郡(さきたまぐんorさきたまのこおり)の役所に高橋連虫麻呂が公務で訪れたときに郡役人の求めに応じて詠われたようです。古代の埼玉郡の役所はどこにあったか分かっていません。

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小埼沼

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コメント

こんにちは(^^)
八重の蓮というのもあるんですね!
来週末行く予定なのでとても楽しみです♪
今からどういう風に撮ろうか考え中です(^-^)

投稿: chocoart | 2009年7月 2日 (木) 12時34分

行田の古代蓮・・・昨年の7月26日にブログアップしていました。
今年も行ってみたくなりました。こんどは小崎沼も見てみよう。

行田の街中を歩いたことがないのです。そこも行ってみたい。

投稿: ヒキノ | 2009年7月 2日 (木) 15時27分

chocoartさん、こんばんは。
来週末ですか!それは楽しみですね。駐車場がいっぱいになる前に行かないといけませんね。

投稿: シゲ | 2009年7月 2日 (木) 18時58分

ヒキノさん、こんばんは。
小埼沼は本当に小さな水溜りみたいでした。行田の町は結構面白そうですよ!やはり城下町の雰囲気が残っています。天領だった時期もありましたが概ね老中職など幕府の要職が藩主になりました。やはり江戸に近いので川越藩と同じですね。

投稿: シゲ | 2009年7月 2日 (木) 19時03分

こんばんは~
わたしも行ってきましたよ~♪
記事の内容がとっても勉強になります(@。@”
知らないことばかりですが、こうやって行って来た場所のいわれを
後からでも知ると、とっても参考になります^^v

投稿: Angel | 2009年7月 2日 (木) 20時30分

Angelさん、こんばんは。
その土地その土地に歴史がありますね。行田は昔から蓮の花が多かったようです。忍城の籠城戦の時も濠に蓮が咲いていたのかも知れませんね。レンコンは貴重な食料でした。

投稿: シゲ | 2009年7月 2日 (木) 21時11分

こんばんは。
まだこれからが本番のようですが、
もう蓮の季節なんですね。
小埼沼の田んぼも風情があっていいですね。
最下段のお写真リズミカルで素敵です。

投稿: photobananas | 2009年7月 2日 (木) 21時55分

photobananasさん、こんばんは。
最近は機械植えがほとんどですので、このような田圃の足跡を見ることは珍しくなりました。
蓮はだんだん綺麗に咲きだしてきました。昨日、伊奈町の原市沼の古代蓮もかなり咲いていました。

投稿: シゲ | 2009年7月 2日 (木) 22時33分

歴史のロマンを秘めた古代蓮ですね。
開きかけた蕾もよし、咲き誇る花もよし、何とも美しい姿です(*^_^*)

投稿: ぷく♪ | 2009年7月 2日 (木) 23時27分

古代蓮の里の季節になりましたか。私も
そろそろ出動したいと思います。忍城に
まつわる話、興味深く読ませていただき
ました。

投稿: nama3 | 2009年7月 3日 (金) 06時23分

ぷくさん、おはようございます。
行田の古代蓮は色が濃くて綺麗です。忍城攻防戦の頃咲いていた蓮はどんな蓮だったのでしょうね?

投稿: シゲ | 2009年7月 3日 (金) 07時10分

nama3さん、おはようございます。
忍城の戦いは近隣の農民や地侍達が籠城戦の主力だったようです。籠城の大将の成田長親に魅力が無ければここまで戦えなかったでしょうね。

投稿: シゲ | 2009年7月 3日 (金) 07時15分

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