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2009年4月

2009年4月30日 (木)

青梅 梅の公園3

3月10日の東京都青梅市の梅の公園です。もう今頃は梅も桜もすっかり終わって新緑が綺麗でしょうね。しかし桜の花の前の花はやはり梅ですね!万葉集や古今集には梅の花を詠った歌が多いです。新古今集以降になるとだんだんと桜の花の歌が増えてきます。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmF2.8ソフトです。

新古今集から花山院の歌。

      色かをば

    おもひもいれず

      うめのはな

    つねならぬ世に

    よそへてぞみる

(意)梅の花は色も香りも素晴らしい花です。ただ、花の咲き、そして散る様を見て、この世の無常を引き比べて見るのです。

この歌は新古今集の春歌ではなく雑歌として載っています。春の歌と言うより人生観を詠った述懐歌的な歌との意味なのでしょう。和漢朗詠集にも載っている歌です。和漢朗詠集には和漢朗詠集の編成時代の歌はあまり載っていませんので、珍しい歌だと思います。花山院とは冷泉天皇の第一皇子で円融天皇の譲位を受け天皇となりましたが、「大鏡」によると藤原道兼に欺かれて退位に追い込まれたと記録されています。当時の藤原氏の手練手管は凄かったのでしょうね。藤原氏内部の争いが天皇を左右しました。藤原道兼は藤原兼家の子供で道隆・道兼・道長三兄弟でした。それぞれが出世を争い天皇を籠絡し、藤原氏以外や藤原兼家の系統以外の勢力と対立した時は手を結んで排斥に動きました。

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2009年4月29日 (水)

那須烏山市将軍桜

4月11日の栃木県那須烏山市鴻野山に将軍桜と呼ばれる山桜の巨木があります(5~11枚目)。その山桜の根元を発掘調査したところ古代の官道である東山道の遺跡が出てきました。この道は地元では将軍道と呼ばれていて発掘調査の結果道幅は10メート以上あったそうです。現在はその東山道(将軍道)は細い農道となっています。その山桜のそばには奥州征伐で有名な源頼朝達の祖先の源義家が、奥州征伐を終えて都に帰る途中、強大な富と力を持つ長者を恐れ、焼き滅ぼしたと伝えられている「長者伝説」が残されていて、地中から源義家が焼き打ちをした長者の倉庫に保管されていたお米が焼き米として出てくると言われている長者ケ平官衙遺跡があります。古代官道の東山道と古道のタツ街道(道幅が9メートルと確認されている)が交差する交差点跡で官衙(国家の施設や役所)跡が発見されました。発掘調査の結果、政庁(郡丁院)と倉庫群(正倉院)を中心とした典型的な官衙配置であることなどからたぶん古代の下野国芳賀郡衙の支所か駅路の駅家だったのではないかと言われています。古代の駅長は地元の豪族などが兼務していたようなので、上記の源義家の長者伝説とも符合します。タツ街道は「辰街道」とか「立街道」と呼ばれていて芳賀郡衙と東山道を結んでいたと想像されます。しかしこのタツ街道は何処へ向かっていたかは現在は不明ですが下妻街道なのかも知れません。古道は記録も少なくこれからの発掘調査で新事実が出てくると思います。「那須烏山市」及び「さくら市」の教育委員会は文化庁に対しこの付近一帯を国史跡に指定するように申請中です。将軍桜は何代目かの山桜で古代よりこの場所にあったと地元では言い伝えられているようです。坂上田村麻呂や源義家など蝦夷征伐に向かった朝廷の将軍達は下野国衙から那須国衙へ向かう途中、ここの山桜の下を通ったのでしょう。また西国へ向かった防人や平泉へ向かった職人や都への陸奥の金銀財宝もこの山桜の下を通ったのでしょう。また陸奥へ旅した西行法師もこの山桜の下を通ったのかも知れません。鎌倉時代になると徐々に東山道はほかの新しいルートに代わられて寂びれていったのだと思います。古代の官道はそれぞれの国衙を結んでいました。経済の必要性から生まれた道ではなく国家による行政連絡を目的としたもので駅路とも呼ばれました。一定区間(約16Km)ごとに駅が設けられ駅家には道の重要度から置かれている馬の数が違いました。また駅鈴を持っている者は駅に置かれている馬を自由に使えました。同じように国の中の郡衙を結ぶ道は伝路と呼ばれていて各郡衙は5頭の馬を常備していました。大化の改新の詔には駅伝制を布く旨の記述があり、古代は五畿七道が古代日本の行政区分でした。官道の名前をつけた道(どう)が7つ定められ七道とし、東山道などと東山道の通っている国を一括りとしました。例えば東山道那須国とされていました。州県制とすれば州が道に相当します。当時は宿場は存在せず、旅人の宿は国衙や郡衙のそばに必ずあった寺院や街道沿いの駅舎や寺院が主でした。たどり着けなかったときは街道沿いの農民の家に泊めてもらったり野宿が普通でした。古代の旅は大変だったのだと思います。

桜並木は喜連川町の桜並木です。喜連川は足利氏の末裔の足利氏の陣屋があり禄高は4500石でしたが10万石並の格式で武家としては江戸時代唯一御所号を許されていて参勤交代の義務から外されていました。そのほかの写真は旧烏山町の春です。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

松尾芭蕉の奥の細道から。

「さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。 夏草や 兵どもが 夢の跡

この歌は松尾芭蕉が平泉を訪れた時に高館で詠まれました。高館は、中尊寺の東南にある丘陵で、判官館または衣川館と呼れます。その昔源義経が藤原秀衡を頼って下向した時に居城したところで、秀衡の子泰衡によって家臣や妻子もろとも討たれたところでもあります。

松尾芭蕉は唐の大詩人杜甫を終世に渡り傾倒していました。「夏草や兵どもが夢の跡」は明らかに杜甫の名詩「春望」を下書きにしています。この「春望」はだれもが知っていると思います。

春望

 国破山河在 城春草木深 感時花潅涙 恨別鳥驚心 

 烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪

今日からしばらく旅となります。ブログは連日更新されますがコメントが遅れます。インターネットのつながる環境になればコメントできますが・・・・!

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2009年4月28日 (火)

小石川植物園の桜2

4月3日の文京区の小石川植物園です。小石川植物園は少し交通の便が悪いところです。それだけに割合に空いているところでもあります。私が小石川植物園へ行くときは王子で南北線に乗り換えて後楽園駅から歩くか、池袋駅から丸ノ内線に乗り換えて茗荷谷駅から播磨坂を経由して歩きます。小石川植物園は早春から晩秋まで何かがあるところで私のお気に入りの場所でもあります。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。最後から2枚目の写真は女性が桜を見て溜め息をついているところを撮りました。

詞花集から源頼政の歌。

      深山木(みやまぎ)の

    その梢とも

      見えざりし

    桜は花に

    あらはれにけり

(意)深山の木々の中にあって、どれがその梢だと見分けることの出来なかった桜は、咲いた花によって、自然と目につくようになった。

この歌は平家物語の巻一に載っている有名な歌です。近衛院が「深山の花」と題を出したのですが、誰も歌を詠めなかったのを、源頼政一人がこの歌を詠い院のお褒めにあずかりました。源頼政は摂津源氏の武将で常に平清盛側に立ち戦いました。その割には恩賞に恵まれませんでしたが、後に平清盛の奏請により武士としては異例の従三位に叙されました。治承四年(1980)四月、高倉宮以仁王(後白河院第二皇子)の令旨を申し請い、翌月、秘密が漏れたため急きょ平氏政権に対し兵を挙げましたが準備不足により兵力を呼び集めることができずに三井寺より王を護って南都(奈良)へ逃れる途中で、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、同年五月二十六日、宇治川に敗れ宇治の平等院で切腹しました。薨年七十七でした。いまだに源頼政の腹の中は読めず諸説があります。しかし、彼の暴挙が後の源頼朝の挙兵につながりました。

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2009年4月27日 (月)

上野東照宮ぼたん苑の春牡丹3

4月18日の上野公園内の上野東照宮の春牡丹です。牡丹の呼び方は沢山あります。「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」等々です。やはり花の王なのでしょうね。牡丹は中国では唐時代に唐朝を簒奪して女帝として即位し武周朝を建て一代だけで滅んだ則天武后が愛した花だと言われています。牡丹は種からも育てられますが時間がかかり育て方が難しいので一般的には芍薬を台木として接ぎ木して作られます。接ぎ木が一般的になりそれまで高嶺の花だった牡丹が一般的になりました。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトレンズです。

詞花集から藤原忠通の歌。

      咲きしより

    散り果つるまで

      見しほどの

    花のもとにて

    二十日へりけり

(意)咲いてから散りきるまで眺めているうちに、花のもとで二十日を過ごしてしまったことになるよ。

詞書に「新院位におはしましし時、牡丹をよませ給ひけるによみ侍りける」とあります。二十日草は牡丹の事で白楽天の漢詩「花開花落二十日。一城之人皆若狂」によります。

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2009年4月26日 (日)

太平寺のカタクリの花

4月11日の栃木県那須烏山市の太平寺のカタクリです。珍しい事にここのカタクリは数を増やしています。ここは旧烏山町でした。この周辺は昔は林の中がカタクリで埋め尽くされた山が沢山ありました。いまや激減です。このカタクリは有名な「龍門の滝」の隣にある太平寺の境内にあります。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mm&ミノルタ500mmF8です。

太平寺は延暦22年(803)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷(えぞ)討伐の時にこの地に立ち寄り大願成就を祈願し千手観音菩薩を安置し、堂宇を建立したのが始まりとされています。嘉祥元年(848)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により滝尾山正眼院太平寺が開基されたといわれています。その後、当地を支配していた那須氏の庇護のもと、度々堂宇の修理が行われ、天正18年(1590)那須氏改易の後も歴代城主の信仰が厚く、特に享保10年(1725)大久保常春が烏山へ転封の後は、観音堂の大改修が行われ大久保家の菩提所となりました。太平寺には大久保家や重臣の関係者のみが埋葬を許される墓域が設けられていました。その中に大久保忠胤(おおくぼただたね)(2代藩主)の四女「於志賀姫(おしかひめ)」の墓といわれる墓地も残されていて、この於志賀姫が川口松太郎の小説「蛇姫様」のモデルとなった人物の一人といわれています。川口松太郎の書いた小説「蛇姫様」は下野国烏山藩のお家騒動に関わるお姫様「琴姫」と料理茶屋「ひのき屋」の娘「おすが」その兄の「千太郎」に対する国家老「佐伯左衛門」という悪役との波瀾万丈の物語りだそうです。琴姫が「蛇姫」と呼ばれるようになるのは意に沿わない結婚を強いられて行った婚家先で、若殿がつまり婿殿が琴姫に近づくと、どこからともなく真っ黒な蛇が現れて琴姫に近づけません。それが世間に伝わり「蛇姫様」と呼ばれるようになります。姫は結局は離縁されて戻ります。お家騒動も「おすが」や「千太郎」によって解決して「目出度し 目出度し」となります。川口松太郎は若い頃に隣町の祖母井(うばがい)郵便局に勤めたことがあったそうです。そこで隣町の烏山の蛇姫様の話を聞いたのだと思います。

万葉集から大伴家持の歌。

 

      もののふの

    八十(やそ)少女(をとめ)らが

       汲みまがふ

    寺井(てらゐ)の上の

    堅香子(かたかご)の花

意)大勢の少女たちが入り乱れて水を汲む、寺の井のほとりに咲いている可憐な堅香子の花よ。

堅香子(かたかご)とはカタクリの事だと言われています。

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2009年4月25日 (土)

昭和記念公園のチューリップ1

4月22日に初めて昭和記念公園へ行ってきました。浦和からは南浦和・西国分寺・立川と乗り換えて西立川駅から入りました。乗り換えに時間がかかりました。公園内はチューリップが満開を少し過ぎていました。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトレンズです。

新古今集から清原深養父(きよはらのふかやぶ)

      昔みし

    春は昔の

      春ながら

    我が身ひとつの

    あらずもあるかな

(意)昔経験した春は、昔の春そのままであるのに、我が身だけは変わってしまったなあ。

清原深養父は枕草子を書いた清少納言の曽祖父です。

一昨日SMAPの草なぎ剛が公然わいせつの罪で逮捕されましたが全国紙やスポーツ紙そしてNHKのニュースのトップを飾るようなニュースなのでしょうかね?草なぎは馬鹿ですが作られた芸能人です、常に良い子ぶりっこするのですからそれはストレスが溜まるでしょうね。しかし本当に馬鹿ですね。お酒を飲んで人に迷惑をかけないようにする教育を受けてこなかったのでしょうかね。我が家はその点厳しかったです。社会人になった時にも会社から厳しく教育されました。世界で日本が一番酒の上のトラブルに甘いです。しかし公然わいせつとは誰に対してなのでしょうかね。わいせつ物を見たのは警察官だけでしょうから警察官への公然わいせつなのでしょうか?ガサ入れをするとは警察も異常ですね。薬物の噂が昔からあったのでしょうかね?ふつうは虎の檻に一晩閉じ込めて翌朝警察官の説諭で解放されるものだと思います。私の父が弁護士時代よく川口警察に公然わいせつ罪で拘引されている川口のストリップ劇場の踊り子達の貰い下げに行く時に車を運転して行ったことが何度かあります。父は踊り子に「大事なところを人に簡単に見せるんじゃないよ!」と一応お説教していました。帰りの車の中で父は「彼女達も可哀相なんだ。子供を育てている子もいるし親や兄弟姉妹を食わせている子もいるんだ。他にお金を稼ぐ方法がないんだよな」と言っていました。警察もその点は心得ていて適当に処理していたようでした。公然わいせつ罪とはね。それにしても騒ぎ過ぎですね。少しマスコミはおかしいですね。それより二階大臣の政治資金はどうなったのでしょうかね。こちらの方が大事だと思いますが?検察の特捜部はマスコミが馬鹿なのでニンマリしているかも知れませんね。私も昔、週刊誌に何度か書かれた事があります。TBSテレビのニュースのトップでやられたこともあります。内容は滅茶苦茶な話でした。偶然私がTVを見ていて「何だこれ!」すぐにTBSの報道部に本人だが報道部長と話したいと電話をしたところニュースのディレクターが出てきて貴方とは名前をはっきり出していないとか、最後は伝聞だとか滅茶苦茶の言い分でした。すぐに私の顧問弁護士に依頼して名誉棄損で告訴するぞと脅しの内容証明を出しました。なんだか訳のわからない言い訳の回答が来ました。最後は勘弁してほしいとの謝りの回答が来ました。週刊誌は取材をまともにしないで嘘ばかり書きますね。本当に呆れます。全国紙は私の兄が夕刊の1面でやられました。その記事を書いた若い記者を呼んで六法全書を見せながら記事の間違いを指摘しました。私の兄は名誉棄損で告訴するだろうと言うと顔色が変わってしまいました。兄は面倒だからと告訴はしませんでしたが、まったくマスコミ業界は程度が悪くて頭が悪いのが多すぎですね!

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2009年4月24日 (金)

尾島家のクマガイソウ1

4月20日の埼玉県さいたま市御蔵の尾島家の熊谷草(クマガイソウ)です。クマガイソウ(熊谷草)は北海道南部から九州まで分布するラン科アツモリソウ属の花です。クマガイソウは白いので熊谷市出身の源氏の武将熊谷次郎直実から、アツモリソウは赤いので平氏の平敦盛から名前が来たそうです。二つの花は源平時代に騎馬武者が矢を避けるために背中に背負った母衣(ほろ)から名前が来たようです。形状は何かHです。クマガイソウは絶滅危惧II類です。尾島家は旧大宮市の御蔵の大地主で屋敷林を保存しています。昔はクマガイソウはこのあたりに普通にあった草だったそうです。尾島家は何度かクマガイソウの盗掘に遭っています。ここはイカリソウなど野草の宝庫です。雪モチ草(3,5枚目)はこのあたりではすっかり見かけなくなりました。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&2xテレコンです。

源頼政の歌を家集「頼政集」から。

      暮れぬ間は

    花にたぐへて

      散らしつる

    心あつむる

    春の夜の月

(意)日が暮れない間は花にならって散らしてしまった心を、日が沈みきった後は、春の夜の月を眺めて再びその心を集めるのだ。

源頼政は摂津源氏の長者で平清盛の協力者でしたが最後に平清盛を裏切って平家打倒の兵を挙げ、戦に敗れて宇治の平等院で切腹をしました。当時超一流の歌人で素晴らしい歌をたくさん詠みました。自撰集の家集「源三位頼政集(げんのさんみよりまさしゅう)」を一般的に頼政集と言います。

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2009年4月23日 (木)

上野東照宮ぼたん苑の春牡丹2

4月18日の上野東照宮の春牡丹です。今年の春牡丹は綺麗です。上野東照宮は徳川家康が臨終間際に藤堂高虎と天海大僧正に自分の魂の平穏を守るところを作ってほしいとの依頼を受けて上野の山の藤堂家の屋敷地に作られたと言われています。上野東照宮は原爆で燃え上がった広島の街の火を守り続けているそうです。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

新古今集から太宰大弐(藤原)重家の歌。

      かたみとて

    みれば歎きの

      ふかみ草

    何(なに)なかなかの

    にほひなるらむ

(意)故六条摂政殿の形見として、見れば嘆きが深くなる花の牡丹ですね。深い悲しみのなかで、中々の美しさですね。

詞書によると故六条摂政の基実の正室平盛子から贈られた「ふかみ草」(牡丹)の花の返礼として送った歌です。ふかみ草と深い悲しみをかけた歌です。

清水由貴子さんの自殺は可哀想でしたね。私は介護の問題は国が逃げていると思います。舛添大臣は口や本では親の介護をしたと言っていますが、やはり世間で言われているように大嘘なのでしょう。介護や年金など何も解決していませんし、糸口さえも見えません。口先男の舛添大臣では何も解決をしません。これから解散総選挙に向かってどうするつもりでしょうね。この年金・介護の問題をはっきりさせないと大きな選挙の争点になると思います。いまの政府の政策は目先だけの選挙目当ての政策ばかりです。介護の問題を政府が何もしてくれないのなら安楽死法案を真剣に考えてもらいたいです。自分が介護される立場に近くなると真剣に考えてしまいます。

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2009年4月22日 (水)

浜離宮恩賜庭園の桜1

4月10日の浜離宮庭園です。浜離宮は汐留から歩いてすぐのところにある恩賜庭園です。つまり天皇家から下賜された庭園です。潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園です。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園などが潮入りの庭園でした。江戸時代の初めは将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になった時に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。幕末に15代将軍徳川慶喜が大阪城を幕府軍を置いてきぼりにして幕府の老中など幕府高官を連れて幕府軍艦開陽丸で脱出しました。この時幕府軍の実質的中核部隊だった会津藩主松平容保(かたもり)と桑名藩主松平定敬(さだあき)の兄弟を強制的に連れての大阪城脱出でした。兄の松平容保は会津藩主で幕末期の京都守護職で弟の松平定敬は桑名藩主で京都所司代で両藩とも謹王派を武力で弾圧してきた佐幕派の勢力でした。徳川慶喜は恭順の方針でしたので会津・桑名の両藩主を大阪城に残しておくと大戦争になると思い二人を強制的に連れ出したのです。開陽丸は江戸の浜御殿に着岸して将軍達幕府高官を浜御殿に降ろしました。ただちに徳川慶喜は江戸城に使者を出し迎えの行列を整えさせて江戸城に帰りつきました。当時の目撃者によると将軍以下幕府高官は乗馬で走って江戸城に入ったそうです。

古今集から紀貫之の歌。

      春の野に

    若菜つまむと

      来(こ)しものを

    散りかふ花に

    道はまどひぬ

(意)春の野に若菜を摘もうとやって来たのに、どんどん桜の花が散り乱れ、道が分からなくなってしまった。

  春の野に すみれ摘みにと 来し吾ぞ

    野をなつかしみ 一夜寝にける  山部赤人(万葉集)

  桜花 散りかひくもれ 老いらくの

    来むといふなる 道まがふがに  在原業平(古今集)

この紀貫之の歌は昔から山部赤人と在原業平のこの二つの歌に影響されていると言われています。桜吹雪に道を見失ってしまったという幻想的な歌かも知れません。紀貫之の歌は静かですね。

カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mm&28mmソフトレンズF2.8です。

昨日和歌山カレー事件の最高裁の判決が出ました。皆さんが裁判員ならどのような判決を出しましたか?私が裁判員ならば無罪です。あまりにも証拠が状況証拠だけにすぎます。それも状況証拠としては極めて弱い証拠ばかりだと思います。裁判記録を読んでないので確定的なことは言えませんが。ヒ素も100パーセント同じ物だとしても被告が持っていたヒ素だとは特定できません。あくまで推定しているだけです。私は犯人は目撃者が見た白いTシャツを着ていた人物だったと思います。被告は黒いTシャツを着ていました。白いTシャツを着ていた人物が傍に居たのかも知れません。状況証拠は100万個あっても証拠にはならないと思います?確かに被告は黒に近い灰色です。しかし私が裁判員なら間違いなく無罪です。死刑にするだけの証拠がないと思います。この事件も証拠を挙げられなかった警察がマスコミへの情報操作を繰り返したように思えます。今後、和歌山カレー事件のようにこれという証拠もなく感情だけで死刑にされてはたまりません。裁判員制度がもうすぐ始まりますが、私のように最初から裁判官や検事などをまったく信用していない人間にとって、すべてを疑ってかかるのでそう簡単に裁判官や検事の意見には左右されませんが、皆さんは自分の意見を持って裁判員として死刑の判決を出せますか?亡くなった遺族の方はお気の毒だと思います。誰かが犯人なのですが、被告が犯人であると明確な証拠もなく最初から決めつけるのは間違えていると思います。やはり最後は司法の原則である疑わしきは罰せずにしないと冤罪は増えるでしょう。逆にアメリカのシンプソン事件のように明らかに有罪な証拠がそろっていても無罪になってしまうこともあります。運ですね!ちょうど昨日、足利事件の再審が決まったようです。これは弁護人のDNA鑑定についての地道な努力が報われたのでしょう。それにしても足利事件は恐ろしい冤罪でしたね。他にも冤罪があるのでしょうね。今まで最高裁は門前払いでしたがこれから再審が増えるかも知れません。

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2009年4月21日 (火)

上野東照宮ぼたん苑の春牡丹1

4月18日の上野公園内にある上野東照宮ぼたん苑の春牡丹です。朝9時の開苑時間に入りました。やはり牡丹は綺麗です。今年は特に綺麗だと思いました。牡丹は桜の次の春の代表選手ですね。牡丹は不思議な花で、漢詩にはよく歌われているのですが日本では和歌で、ほとんど詠われていません。平安時代にたぶん遣唐使達が薔薇などと一緒に持ってきたのだと思います。一説には遣隋使が奈良時代に中国から持ち帰ったとの説もあります。最初は観賞用の花ではなくて、薬用だったと思います。源氏物語にも牡丹だろうと思われる花が出てきますが、小さかったようで鑑賞用とは思えません。中国でも古代から薬草として栽培されてきたようですが、隋の時代に鑑賞用の花として盛んに栽培されたようです。隋の後の唐の時代になると「花王」や「百花王」と呼ばれ鑑賞用に栽培され牡丹を詠った漢詩が盛んに作られました。日本では「ぼうたん」、「深見草」とか「二十日草」と呼ばれていました。また木芍薬とも呼ばれました。ちなみに芍薬は草芍薬と呼ばれていました。牡丹の花は木に咲く花で枝分かれします。芍薬の花は牡丹の花が散ったころに草に咲く花でまっすぐ立って咲きます。花はほとんど同じです。両方とも根は漢方薬です。

カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

晩唐の詩人の皮日休(ひじっきゅう)の漢詩。

 落尽残紅始吐芳(ざんこうをおちつくして はじめてほうをはく)
 佳名喚作百花王(かめいよびてなす ひゃっかのおう)
 競誇天下無双艶(きそいほこる てんかむそうのえん)
 独占人間第一香(ひとりしむ じんかんだいいちのこう)

(意)花が散りつくしてからやっと咲き始める。その名は百花の王とよばれる。天下に並ぶことのない無双のあでやかさを競い誇る。この世の中で一番の香を放っている。

皮日休は貧しい家に生れましたが唐の科挙に受かり進士として官僚の道を歩みましたが唐末の大反乱黄巣の乱で黄巣政府に入りましたが疑われて殺されたと言われていますが最後についてはよくわかっていません。

自宅のPCも事務所のPCもVistaですが数日前から両方とも動作が不調で画像の編集に異常に時間が掛ります。どうもVistaPCはあんばいが良くないですね。

デビ夫人が右翼の街宣車とトラブルを起こしましたね。マンションの上から右翼の街宣車に植木鉢を落としたとか?快挙ですね!私もむかし右翼の街宣車に自宅をやられた事があります。銀行本店前の道路上に街宣車を止めてスピーカーを私の自宅に向けてガナッテいたそうです。私は不在でしたが、子供達がビックリして「明日お父さんが警察に逮捕されるって言っていたけど大丈夫?」これは効きますよ!その時見ていた知人の話によると警察の覆面パトカーがついていたそうです。覆面パトカーは公安警察ではなく刑事警察です。なぜか右翼の街宣車には護衛するかのように警察車両が付いて走るんですね。デビ夫人の場合は北朝鮮関係の話なので公安警察かも知れません。公安警察は共産革命や暴力革命を排除するためにできた警察組織の中の組織で藪の中に隠されている警察組織です。警察学校で成績優秀で思想信条や家族に問題のない警察官だけが入ることができ憲法では認められていない秘密警察のような性格を持っています。国民にはその動きはほとんど知らされていません。最近は北朝鮮やオウム事件で公安警察とは少し系統の違う公安調査庁の名前が出てきたので気がついた人が多いと思います。右翼には触らないのが原則です。十数年前の出来事で公安警察の動きの事で最近気がついたことがあります。日本国憲法に違反する動きで公安警察以外考えられない不思議な出来事が私の周りでありました。当時は刑事警察の動きかと思っていたのですが。そのうちこのブログに書くことがあるかも知れません。

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2009年4月20日 (月)

松江市1

4月6日の島根県松江市です。鳥取県と島根県との区別がつきません。松江城は堀尾吉晴が築城したお城で別名「千鳥城」と呼ばれています。堀尾吉晴は通称茂助(もすけ)と呼ばれていました。もともと堀尾氏は山内氏(山内一豊の家系)とともに岩倉織田氏の重臣の一人でした。戦国時代の織田氏は岩倉織田氏と清洲織田氏に分かれてお互いに争っていました。織田信長の家系は清洲織田氏の家老でした。岩倉織田氏が織田信長の尾張統一の途中で滅ぼされると堀尾茂吉は一時浪人となりましたが、後に織田信長に仕えました。その後に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家来をもつようになると、木下藤吉郎は主君の織田信長にねだって堀尾茂吉を家臣としました。豊臣家では最古参の重臣の一人で苦労人と言われ戦場では勇猛果敢でしたが普段は温和な性格で「仏の茂吉」と言われていました。豊臣秀吉の晩年には中村一氏や生駒親正とともに中老として政権に参画しました。今回初めて松江市を訪れましたが時間がなくてお城には入らずにお濠を船で巡る堀川巡りをしてきました。お濠には16の橋があり、いくつかの橋は高さが低いので船の屋根が下がります。船に乗っている人達は頭を船べり近くまで下げないと頭が橋にゴッツンしてしまします。シラサギ、アオサギやカワウなどたくさんいました。

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)歌。

      むらさきも

    朱(あけ)もみどりも

      春の色は

    あるにもあらぬ

    山桜かな

(意)紫も、朱色も、緑も、春の色はあるとも言えないほどの山桜である。

山桜は花と若葉が同時に開きます。花は白からピンクまであり、若葉は紫色も朱色も緑色もあります。ソメイヨシノとは比べ物にならないくらい多種多様で微妙で複雑です。

木下長嘯子は本名は木下勝俊で豊臣秀吉の正妻北政所ねねの兄である木下家定の嫡男です。関ヶ原で西軍を裏切った小早川秀秋の兄でした。幼少から秀吉に仕え数少ない縁者として重用され若狭国後瀬山城8万石を領しました。娘が徳川家康の五男の松平(武田)信吉に嫁ぎました。関ヶ原直前に木下勝俊は徳川家康から伏見城守備を命じられましたが会戦寸前に伏見城を脱走したために、関ヶ原後ただちに改易させられました。その後は高台院(北政所)の世話で父の遺領を継ぐことができましたが親族の争いから再び改易とされました。その後は京都東山に隠棲しました。木下勝俊の娘婿の松平信吉は母が武田一族だったので武田氏が滅んだあと甲斐源氏の名門武田氏を再興し穴山氏の旧領を中心として領地としました。関ヶ原後は西軍に関与した佐竹氏は秋田へ移封となり、信吉は佐竹氏の本拠地である水戸に入りました。信吉の家臣団は精強な旧武田の家臣団、特に穴山衆を中心としました。しかし、信吉が早世したため水戸へは徳川家康の10男の徳川頼宣(とくがわよりのぶ)(後の御三家の紀州徳川家の祖)が入り、その後に11男の徳川頼房(とくがわよりふさ)が入り幕末まで続く水戸藩が成立しました。多くの武田家臣団は水戸藩に編入されました。

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2009年4月19日 (日)

桃源郷の栃木植物園2

4月12日の栃木県都賀町大柿花山の栃木植物園です。都賀町は桜で有名なところで街の中にはたくさんの桜が咲いています。近所の「都賀の里」には大きな枝垂れ桜が数本あります。東北自動車道に沿って大きな山桜が都賀の里の小高い丘の上に咲いています。この桜は夜になるとライトアップされるので高速道路から非常に目立ちます。また栃木植物園から1Kmほどの所に「花之江の郷」もあります。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

栃木植物園には大きな枝垂れ椿があります。昔からここに自生していたそうですが、植物学者が枝垂れ椿を探しにこの山へ来たそうです。最近時々見かけますが変わった椿です。

古今集から伊勢の歌。

      さくら花

    春くははれる

      年だにも

    人の心に

    あかれやはせぬ

(意)桜の花は、ひと月余分に春が多い年でさえ、人の心に満足されずに散ってしまうのだろうか。長く咲いてほしい。

詞書に「三月に閏月があった年」とあります。太陽太陰暦で季節と月のずれを直すために数年に一度入れる閏月のことです。この歌は904年の閏3月に詠われた歌だと言われています。伊勢は女流歌人として勅撰和歌集に最多の入集数でした。伊勢は平安貴族社会の恋多き女性で多くの恋人と男性遍歴を重ね、やがて宇多天皇との間に皇子をもうけましたが5歳で早世してしまいました。宇多天皇の更衣(側室)になったとも言われています。宇多天皇が僧籍に入ると宇多天皇の皇子だった敦慶(あつよし)親王と結ばれて中務を生みました。中務は女流歌人として後撰集時代の代表的歌人でした。

昨日、上野東照宮のぼたん苑の春牡丹が素晴らしいとの話を聞いて朝一番で行ってきました。本当に素晴らしかったです。今まで数え切れないほど行っていますが、これほど見事な東照宮の牡丹は初めて見ました。今日もまだ綺麗だと思います。4月11日から公開しています。2日目にも来た人の話ですと2日目はもっと見事だったと言っていました。六義園にも行ってきましたがツツジは少し早すぎましたが綺麗でした。少し忙しいので写真の整理ができないので後刻アップします。

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2009年4月18日 (土)

小石川植物園の桜1

4月3日の小石川植物園です。ここは「国立大学法人東京大学大学院理学系研究科附属植物園」が正式名称です。長いですね!最近大学の学部の名前などが複雑怪奇に見えます。昔の人間の私にはチンプンカンプンです。もっと簡単にわかりやすい名前にすればいいと思うのですが?とにかくこの植物園は植物学の教育・研究活動を目的とする東京大学の付属施設だそうです。文京区小石川に本園を置き、栃木県日光市に分園として日光植物園があります。徳川幕府の開設した薬草園「小石川御薬園」が起源で、明治10年に東大の附属植物園となりました。この薬草園に徳川吉宗が貧民の医療施設として小石川療養所を設けました。これは当時吉宗の命で評定所門前に設けられた目安箱に江戸の住民の誰でもが意見をこの箱に投げ込んで具申でき、この目安箱を開けることが出来るのは将軍吉宗だけでした。この目安箱へ町医者小川笙船から貧民の医療施設の必要性が説かれた投書があり、目安箱を見た吉宗が南町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)に命じて調査検討させて小石川御薬園内に江戸町奉行所管理の貧民用の無料医療施設を設けたのが始まりで、南北両奉行所から担当の与力と同心が常駐していました。大岡越前守が南町奉行に就任した頃は奉行所など江戸の民生に関しての機構改革が大幅に進んでいた時で、中町奉行所が廃止され南北の2つの奉行所が隔月で江戸の民生を担当するようになっていました。また隅田川の川向うの本所深川が江戸に編入され町奉行所の管理に移った時期でもあります。当時の本所深川は江戸の町のゴミの捨て場で湿地帯や海岸を埋め立てた土地で、江戸時代初期は隅田川の西側が江戸で今の江東区などは下総国でした。後に徐々に貧しい人達が隅田川の東側に多く住むようになりました。江戸に編入される前の本所深川は本所奉行が管理をしていました。本所奉行ができる前は勘定奉行の管理とされていました。

和漢朗詠集から源英明(みなもとのふさあきら)の漢詩。

  始識春風機上巧 非唯織色織芬芳

始(はじ)めを識(し)る春(はる)の風(かぜ)の機上(きじやう)に巧(たくみ)なることを、
たゞ色(いろ)を織(お)るのみにあらず芬芳(ふんはう)をも織(お)る。

(意)この花の錦を見て初めて知りました。春風が機織りの名人であることを。春風は素晴らしい色を織り出すだけではなく、芳しい匂いさえも織り出すことができるのです。

和漢朗詠集は平安時代、藤原道長の娘威子が第68代の後一条天皇へ入内した時に贈り物として屏風絵に添える歌として贈られたもので、のちに藤原公任の娘の結婚の引き出物として贈られたものです。和歌216首と漢詩588詩が収められています。漢詩の中で唐の詩人白楽天(白居易)の漢詩が一番多く含まれています。和漢朗詠集は貴族の宴会などで場を盛りたてるために皆で唱和したようで、当時の貴族にとって暗唱することは必修だったようです。源英明とは宇多天皇の孫です。

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2009年4月17日 (金)

花之江の郷の春1

4月12日の栃木県都賀町の「花之江の郷」です。今回は山・郷ゾーンです。シラネアオイが咲いていました。キバナカタクリ、二輪草、イカリソウなども沢山咲いていました。次回は湿地・林ゾーンの桜、レンギョウ、ユキヤナギとモモの花をハデハデでアップします。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mm&ミノルタ100mmソフトF2.8&ミノルタ500mmF8です。

古今集から読み人知らずの歌。

      春の色の

    いたりいたらぬ

      里はあらじ

    咲ける咲かざる

    花の見ゆらむ

(意)春のけはいが及んだり、及ばなかったりする里などあるはずがない。どこでも春はやって来るのに、なぜ咲いている花と咲いていない花が見られるのだろうか。

いたりいたらぬ咲ける咲かざるとが面白いですね!

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2009年4月16日 (木)

新宿御苑の桜2

4月9日の新宿御苑です。新宿御苑の春は1週間に2回ほど写真を撮りに行かないとベストショットは撮れないそうです。普通の人には難しいですね。私も10日に1回行ければ良いほうです。ソメイヨシノは散り始めていて風が吹くと花が散って桜吹雪になりかかっていました。新宿御苑は本当に綺麗です。

古今集から在原業平の歌。

      世の中に

    たえて桜の

      なかりせば

    春の心は

    のどけからまし

(意)この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。

詞書には「なぎさの院にてさくらを見てよめる」とあります。なぎさの院とは大阪府枚方市辺りにあった惟喬親王(これたかのみこ)の別荘です。伊勢物語82段には「狩はねむごろにもせで、酒をのみのみつつ、やまとうたにかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり」とあり、桜の木の下での宴の時に詠まれた歌です。美しい桜の花の散りゆく時に人は桜の花の下での楽しい思い出が儚く思い出されるものなのでしょう。過ぎ去るのを悲しみ惜しむのでしょうね。

こののどかな春に北朝鮮は訳の分からないと言うか子供じみた事をしています。まあ、無視をするしかないのでしょう。一緒になって騒いでも仕方がないと思います。麻生政府もマスコミもはしゃいでいるようにみえます。北朝鮮には朝鮮戦争はまだ終わっていないのです。確かに38度線で休戦はしていますが終戦にはなっていません。北朝鮮はまだ独自の戦争をしているのです。その点を理解しないと日本人拉致も核開発もミサイルも理解が出来ません。まさに拳銃を持っているベビーギャングのように見えます。日本も国連ではいまだに敵国と規定されています。サンフランシスコ講和条約で戦争は終わっていますが国連では日本は敵国ですから攻撃してもいいはずなのです。戦勝国は日本とドイツを敵国としておかないと自分たちの勝手が出来ないので不味いのでしょう。だから日本とドイツは絶対に常任理事国にはなれないのです。北朝鮮も早くアメリカとの間で朝鮮戦争を終わらせたいのでしょう。中国もロシアも北朝鮮の鉱物資源(レアメタル)などを見ているのでしょう。アメリカは38度線を引いた問題があり、あまりはっきりと休戦状態を変えると韓国と北朝鮮の問題が再燃する可能性があります。北朝鮮の気持ちもわからないわけではありません。日本はアメリカの属国のようなものです。アメリカと北朝鮮で話し合ってもらうしか解決の方法はありません。その時日本だけ取り残されないようにしないと国益の大損失になります。日本の外交官がしっかりしていれば国連への日本の拠出金を取引の材料にして国連内で暴れまわれるのですが!日本が拠出金を数年間止めると国連の維持は非常に難しくなります。ところで皆さんの近所にも北朝鮮のような人がいませんか?我が家の隣の賃貸マンションの住人で20代後半の女性がナイフを持って時々暴れるのだそうです。最近パトカーや救急車がよく来ると思っていましたら、ご近所さんから気を付けてくださいとご注意を頂きました。警察もどうしようもないそうで誰かが刺されないと手が出せないのでしょうか。誰が刺されるかでしょうね!私はゴメンです。

漢字検定協会の問題はこれでまた官僚の天下り先ポストが幾つか出来ることにならなければいいのですが。しかし今まで文科省は何をしていたのでしょうか?こんなとんでもない話を知っていたはずです。なにか隠された事がありますね!官僚に逆らうと小沢代表のように国家権力による闇討ちに遭いますから気をつけないといけませんね!

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2009年4月15日 (水)

桃源郷の栃木植物園1

4月12日に栃木県都賀町大柿花山の栃木植物園へ行ってきました。ここは中世の戦国大名皆川氏の出城の布袋ヶ岡城のあったところです。戦国大名の皆川氏は今の栃木市に本拠のあった豪族で布袋ヶ岡城は宇都宮市に本拠のあった名門戦国大名の宇都宮氏の鹿沼方面からの南進に備えた出城で最近の発掘調査では出城の範囲を超えた大規模な城で皆川氏にとっては最重要な防衛拠点だったのだと思われます。この布袋ヶ岡城が破られれば一気に皆川氏の主城の皆川城まで一気に攻められてしまいます。この城では大きな戦いが何度もありました。皆川氏は下野国の大豪族小山氏の一族です。皆川氏の当主皆川広照は小田原の北条氏と激しく対立し周りの豪族が北条氏に降伏してからも北条氏と戦い続けました。後に豊臣秀吉と対立していた徳川家康は後方の安定のため皆川氏と北条氏との和睦を斡旋したのに従って北条氏の軍門に下りました。豊臣秀吉の小田原攻めでは皆川広照は北条方として小田原城の竹ヶ鼻口の守備をしていましたが、落城寸前に徳川家康に降伏し所領は安堵されました。小田原攻めでは城主不在の皆川城は上杉・真田軍に攻められ落城してしまいました。後に皆川広照は栃木城を築き皆川城は廃城とされました。徳川家康は皆川広照を信頼し六男の松平忠輝が越後高田藩へ移封される前に信州川中島藩主だった時に忠輝の後見人兼付家老として信州飯山藩に加増移封となりました。後に忠輝への諫言が受け入れられないため家康へ直接訴えたことから逆に家康の勘気をこうむり改易とされてしましました。

栃木植物園は山城の布袋ヶ岡城址をそのまま植物園にしました。広い面積でかなり険しい山で色々な道がまざりあっていて迷子になりそうなところです。春から秋までは色々と楽しめる植物園です。春は特に素晴らしいところです。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ500mmF8&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

千載集から西行法師の歌。

      おしなべて

    花のさかりに

      なりにけり

    山の端ごとに

    かかる白雲

(意)世はあまねく花の盛りになったのだ。どの山の端を見ても、白雲が掛かっているように見える。

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2009年4月14日 (火)

北の丸公園の桜2

4月3日の北の丸公園です。北の丸公園から千鳥ヶ淵を眺めるのも綺麗です。田安門周辺はラッシュアワー並みの大混雑でした。武道館で某大学の入学式を行っていました。化粧が派手なので夜のキャバクラへ行ったような感じの女子大生が多かったです。最近はプロの女性の化粧と素人の女性の化粧があまり違わなくなっている、と言うよりもプロの女性の化粧の方が地味かもしれません。何かおかしいですね!

古今集から小野小町の歌。

      色見えで

    うつろふものは

      世の中の

    人の心の

    花にぞありける

(意)花は色に見えて「うつろふ」ものだが、色には見えず「うつろふ」もの、それは人の心に咲く花だったのだ。

人の心の頼み難さを移ろいやすい花に例えての哀艶な心からの吐露とでも言えましょうか。

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2009年4月13日 (月)

新宿御苑の桜1

4月9日に新宿御苑へ行ってきました。新宿御苑の桜は早咲きから遅咲きまで種類が多く長く楽しめます。今年のソメイヨシノの最盛期は先週末までだったと思います。御苑内には大きな枝垂れ桜が数本あります。ピンクが濃くて綺麗です。八重桜も種類がいくつかあり、今週が盛だと思います。八重桜は牡丹咲きですので大きくて綺麗です。NTTドコモ代々木ビルが目立ちます。このビルを入れたショットもなかなかいい雰囲気になります。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

古今集から素性法師の歌。

         見わたせば

     柳桜を

         こきまぜて

      都ぞ春の

      錦なりける

(意)都をはるかに見渡せば、柳の緑と桜の色と、取り混ぜて、さながら春の錦であった。

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2009年4月12日 (日)

石見銀山1

4月5日の世界遺産の石見銀山です。島根県大田市にあります。石見銀山は鎌倉時代末あたりから採掘されていたようですが本格的に採掘されたのは1526年の博多商人神谷寿貞によると言われています。それ以降は石見銀山の支配権をめぐる争いが周防の守護大名大内氏と出雲守護代の尼子氏との間で激しい争奪戦争があり、大内氏が没落すると毛利氏が尼子氏と支配権をめぐって激しく争い、最終的には毛利氏が完全に支配することとなりました。その後、豊臣秀吉の日本統一後は豊臣氏と毛利氏の共同管理となり朝鮮出兵の軍資金ともなりました。関ヶ原後は徳川家康はこの地域を幕府直轄領の天領とし初代石見銀山奉行として大久保長安を送り込みました。16世紀の世界の銀の産出量の1/3が日本産でありそのほとんどが石見銀山から産出された銀でした。当時の日本の銀はどのようなルートでヨーロッパへ流れていったのでしょうか?非常に興味が湧くところです。やはり中国やポルトガルへ貿易の代価として流れていったのでしょう。日本は大昔から銀本位制でした。幕末の諸外国との貿易の代価は銀で支払われていました。銀と金の交換比率の差で諸外国は大儲けをしました。イギリス、フランス、アメリカが日本の鎖国政策を開国へ向かわせた大きな理由の一つがこの銀と金の交換比率でした。世界中から貿易商人が開港された日本の港にやってきました。彼等は諸外国の物産を日本に売り、代価として銀で受け取りました。外国人にとって日本は世間知らずの美味しい国で、彼等貿易商人は日本から何十倍もの巨額な利益を吸い上げました。幕末末期になり幕府はその点にやっと気がつきましたがすでに大量の銀が日本から外国へ流出した後でした。

江戸時代末期は石見銀山での銀の産出は非常に減ってきて採算に乗らなくなっていました。幕末の第2次長州戦争により幕府代官および役人達が備中国倉敷に逃亡し石見銀山は長州藩の支配することとなり明治維新により明治政府の所有となりました。江戸時代から有名だった「石見銀山鼠捕り」のヒ素は石見銀山産ではありません。石見銀山ではヒ素は出ませんでした。そのために現在もこれだけの緑の山が残されているのです。石見銀山鼠捕りは同じ石見国の笹ヶ谷鉱山の銅を採掘するときに出るヒ素を殺鼠剤として有名だった石見銀山の名前を使って全国販売をしたのです。

カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

万葉集から山上憶良の歌。

      銀(しろがね)も

    金(くがね)も玉(たま)も

      何せむに

    まされる宝

    子にしかめやも

(意)銀も金も真珠も、何になろうか。大切な宝と言ったら、子にまさるものなどありはしない。

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2009年4月11日 (土)

北の丸公園の桜1

4月3日に千鳥ヶ淵から北の丸公園へ行ってきました。今回は北の丸公園の桜です。北の丸公園からお濠の写真は桜が綺麗で水面が桜を引き立ててくれます。赤いイタリア文化会館も初めの頃は違和感がありましたが、最近は落ち着いて見えるようになりましたから不思議ですね!千鳥ヶ淵の交差点を左に折れて北の丸公園に入ると突然人出も減って、道路沿いに山桜やコブシが綺麗な場所があります。山桜にも色々な種類がありピンクや白い花が若葉と一緒入り混じり綺麗に咲いています。コブシは少し早く咲くので花が痛み始めていますが逆光で山桜と混ざり合って本当に綺麗でした。ここは北の丸公園の中でも本当に素晴らしい場所だと思います。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。千鳥ヶ淵は人出が多いので人混みの上からカメラを持ち上げて撮るためにE-3を持ち出しました。こんな時には液晶がフリーアングルのE-3は抜群の働きをしてくれます。

新古今集から在原業平の歌。

      花にあかぬ

    なげきはいつも

      せしかども

    今日のこよひに

    にる時はなし

(意)桜の花を眺めれば、いくら見ても見飽きず、長い溜息をつく。そんな経験を今まで春ごとにして来たけれども、今宵ほどその溜息を深くした時はない。

出典の伊勢物語二十九段によると「むかし、春宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに」とこの歌を詠った事情を説明しています。業平にとって心の恋人の二条后を暗示しているとしか思えない「春宮の女御の御方」が催した花の賀宴に臨席して詠われたと思われます。この場合、単に花の散るのを歎いている歌ではなくなり、「あかぬなげき」には、賀宴が終わることへの哀惜と、心の恋人である女主人への限りない讃美と恋い慕う気持ちが籠められていると思います。二条后と業平の後日譚(人の噂に伊勢物語のように東国に逃れる)を匂わせるような歌であると思われます。色々と詠われた事情を勘案すると在原業平の歌には意味深い歌が多いです。

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2009年4月10日 (金)

米子城址

4月4日から3泊4日で山陰地方を観光ツアーで回ってきました。4日に鳥取県米子市内のホテルに1泊しました。4日は生憎の雨で傘をさしながら米子城址公園の桜を見に行ってきました。雨の中、ブルーシートを屋根代わりにして酒盛りをしている人たちが結構いました。翌朝は早起きをして城址に登ってきました。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

鳥取県は旧国名から言うと県の東部を因幡国、中西部は伯耆国でした。米子城は応仁の乱の頃築城された記録があり、伯耆国の守護大名山名氏が支配していました。その後、出雲守護代の尼子氏の伯耆侵攻により尼子氏の支配になりました。その後、毛利氏の東進により尼子氏が滅びましたが山中鹿之助などの働きと織田の武将である木下藤吉郎(豊臣秀吉)の後押しで尼子氏が再興されると米子城主山名之玄と尼子氏は手を結び毛利氏に対立をしました。しかし毛利側の吉川元春に米子城は攻め滅ばされて尼子氏も織田軍の後ろ盾も受けることができず毛利氏の軍門に下りました。その後、西伯耆・隠岐・東出雲を領地とした吉川広家の城となりました。関ヶ原後、論功行賞により中村一忠の居城となりました。しかし、一忠は12歳だったので徳川家康のお声掛かりで義叔父の横田村詮(よこたむらあき)が6000石の筆頭家老として後見役を務め、米子藩の家政全般を取り仕切りました。その後、中村一忠は家老の横田村詮の諫言を恨み宴席で暗殺したために横田氏一族や藩主一忠に反感を持つ家臣たちが出城の飯山城に立て籠もり(城内の内膳丸に立て籠もったとも言われています)反抗をしたため内乱状態となり、中村一忠は隣国の出雲の堀尾氏に出兵の援助を頼みかろうじて反乱を鎮圧をすることができました。その後、中村一忠は跡継ぎが将軍家へのお目見えする前に亡くなったため跡取り不在とされ断絶とされました。その後一時期加藤氏が入部しましたが他国に移されたため米子藩は廃藩とされ、その後は鳥取藩池田家の領地となり家老の常駐する城となり明治まで至りました。江戸時代は一国一城(一藩一城)の決まりがあり、一国一城以外の城は廃城とされました。米子城はこの決まりの範囲外で毛利氏や薩摩氏の反乱に備え山陰地方の戦略上重要な城だったのだと思います。

藤原家隆の家集「壬生集」から。

      鐘のおとも

    明けゆく空に

      匂ふなり

    今日もやありて

    花を見るべき

(意)明るくなって行く空に、鐘の音もほのぼのと香りたつかのようだ。今日も生きて花を見ることができるだろうか。

昨日の午前中に新宿御苑へ行ってきました。桜が満開で時々風に乗って桜吹雪が降ってきました。綺麗でした!風が強くなければ明日辺りまで綺麗だと思います。八重桜は来週前半が綺麗だと思います。今日は大井町まで出掛ける用があるので浜離宮でも寄ってこようかと思っています。暑いでしょうね!

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2009年4月 9日 (木)

川口グリーンセンター1

3月5日の川口グリーンセンターの観賞用温室です。やはり蘭は綺麗ですね。白い色の蘭は少し痛み始めていました。カメラはソニーα900とミノルタ100mmF2.8ソフトとクローズアップフィールターです。デジカメはバックのボケが難しいです。

新古今集から藤原家隆の歌。

      思ふどち

    そこともいはず

      行き暮れぬ

    花の宿かせ

    野べの鶯

(意)気の合った同士、どことも決めずに遊び歩いているうちに、春の日も暮れてしまった。野辺の鶯よ、今夜はおまえが泊る花の宿を貸してほしい。

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2009年4月 8日 (水)

日比谷公園2

3月12日に日比谷公園へ行ってきました。日比谷公園は江戸時代は鍋島藩と萩藩(毛利氏)の上屋敷でした。明治になり林学博士の本多静六によりドイツ式洋風近代公園となりました。日比谷公園の松本楼のテラスの前の大銀杏は首かけ銀杏と呼ばれている銀杏です。この銀杏は現在の日比谷交差点脇にあったものですが、明治32年頃道路拡張のため伐採されようとしていたところ、日比谷公園の設計者である本田静六博士が、移植不可能といわれたイチョウを首に賭けても移植させるといって移植したのがその名の由来です。決して首掛けではなく首賭けです。日本語は難しいですね!樹齢は400年以上と言われ徳川家康の江戸入府頃から今の日比谷交差点脇にあったようです。その後、昭和46年11月に過激派による松本楼の焼き打ち事件で松本楼が全焼となった時に一緒に被害を受けましたが、今は元気に枝を空に伸ばしています。松本楼は昭和48年に再建されました。

古今集から在原元方の歌。

      霞立つ

    春の山辺は

      遠けれど

    吹きくる風は

    花の香ぞす

(意)霞が立ちこめている春の山は遠いけれど、吹き寄せる風は花の香がする。

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2009年4月 7日 (火)

武蔵丘陵森林公園の春

3月15日の埼玉県滑川町の武蔵丘陵森林公園です。梅は終わりかかっていましたがまだ綺麗でした。サンシュユの黄色い色と紅白の梅の組み合わせが綺麗でした。カタクリは年々花が小さくなってきているようです。気候と関係があるのかも知れません。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

拾遺集から凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)の歌。      

      吹く風を

    なにいとひけむ

      梅の花

    散りくる時ぞ

    香はまさりける

(意)吹く風をどうして厭おうか、梅花は散るときこそ香りり高くなるのだから。

本当は風など吹いてくれるなと思っているのです。

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2009年4月 6日 (月)

新宿御苑の桜の咲き始め3

3月27日の新宿御苑です。色々な種類の桜が咲き始めています。これからの新宿御苑は春一色です。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mm&ソフトフィールターです。

新古今集から藤原俊成女の歌。

      恨みずや

    うき世を花の

      いとひつつ

    誘ふ風あらばと

    思ひけるをば

(意)私はこんなに花が散ることを惜しんでいるのに、恨まずにいられようか。花が、浮世を厭いつつ、「風の誘いがあるなら、散ってしまおう」と思っているのを。

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2009年4月 5日 (日)

千鳥ヶ淵の桜

4月3日に皇居のお濠の千鳥ヶ淵から北の丸公園へ行ってきました。その後に小石川植物園と播磨坂の桜並木を撮ってきました。播磨坂でビックリ、日本テリアのブンちゃんとモンちゃんと出会いました。ブロガーのFairy Ringさんと初めてお目にかかりました。

今回は千鳥ヶ淵の桜です。朝8時前から撮り始めましたので少し光線が難しかったです。桜は一部満開でしたが今週の日曜日が綺麗だと思います。今日は某大学の入学式が武道館でありましたので地下鉄の九段下駅周辺は大混雑でした。小石川植物園の桜は綺麗でした。7分咲きぐらいでしょうか!午後は気温が上がりましたので一気に満開となると思います。

古今集から読み人知らずの歌。

  あだなりと 名にこそたてれ 桜花

    としにまれなる 人も待ちけり

(意)浮気者と評判にこそ立っているけれども、桜の花は、一年に稀にしか訪れない人を待っていましたよ。

古今集から在原業平の返歌。

  けふこずは あすは雪とぞ ふりなまし

    消えずはありとも 花と見ましや

(意)確かに、私が待たせたので桜は今日まで散らずに永らえてくれましたね。もし今日私が訪ねて来なかったら、明日あたりはもう怺えきれず、雪となって降ってしまったでしょう。もっとも、雪でないから消えはしません。だとしても、散ってしまったのを人は花と見るでしょうか。

伊勢物語にもほとんど同じ歌が詠われています。在原業平が久しぶりにある女性のもとを訪れた時に女性が業平に「毎年咲いてくれる桜の方が、何年も訪れてくれない貴方より誠意がありますね」と歌いかけると、業平は「今日は私のことを思い出してくれたが、明日になれば他の男に心を動かしてしまうのでしょう。あだなのは貴女の方でしょう」と切り返しました。

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2009年4月 4日 (土)

小石川後楽園のしだれ桜

3月28日に小石川後楽園へ行ってきました。最初は駒込の六義園(りくぎえん)へ行ったのですが大混雑で入場できずに後楽園へ回りました。六義園では入場券の購入するために列に並ぼうとしたのですが200メートル程歩いても最後列がはるか向こうで見えませんでした。500メートル以上並んでいたと思います。小石川後楽園では50メートルほどの列でした。最近はどこでも人出が凄いですね。それだけ元気な老人が増えてきたのでしょうかね。ラジオの中継によると3月31日は上野駅のホームから公園口改札まで大混雑で歩けなかったそうです。

千載集から西行法師の歌。

      花に染(そ)む

    心のいかで

      のこりけむ

    捨て果ててきと

    思ふわが身に

(意)花に染まるほどの心がどうして残ったのだろうか。現世に執着する心はすっかり捨て切ったと思っている我が身なのに。

今日から数日間留守にします。ブログは予定稿を入れてありますので毎日更新されます。

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2009年4月 3日 (金)

古河総合公園の花桃2

3月26日に茨城県古河市の古河総合公園の花桃を撮りに行ってきました。古河は昔から交通の要衝でした。水運の重要な拠点でもあり日光街道の宿場町でもありました。歴史的には古河公方の住んでいたところです。古河公方の起こりは、1338年京都に室町幕府を開いた将軍足利尊氏が関東地方10ヶ国を治めるために子の基氏を将軍の代理として鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣しました。その後、鎌倉公方4代持氏が京都の将軍家と対立、1439年6代将軍義教と戦いましたが鎌倉公方は破れ、持氏は自害させられました。その後、生き残った持氏の子成氏が許されて鎌倉公方に就任しましたが、再び幕府に反旗を掲げ、1445年鎌倉から室町幕府側(関東管領上杉氏)の攻撃により古河の地に座を移したことによります。それ以来130年余りにわたって古河公方と称し、東国における鎌倉公方の嫡流として関東諸豪族から認められていた存在でした。そのため関東一円の重要な位置を占めてきました。当時の関東は室町幕府・堀越公方(幕府から送り込まれた公方で鎌倉へ入れず伊豆国の堀越に館を構える)・関東管領山内上杉・扇谷上杉氏の勢力範囲は上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲でした。古河公方は下野・常陸・下総・上総・安房(鎌倉時代から続く在地大豪族)を勢力範囲として両勢力は対立をして争い関東大乱と言われていました。この関東大乱の中で味方同士で争ったり敵方と手を結んだり、複雑怪奇な動きが続き、豊臣秀吉の小田原攻めが終わるまでこの混乱は続きました。豊臣秀吉は名門の古河公方の跡取り娘に古河公方家の分家である小弓公方の足利国朝を娶わせ下野国(栃木県)喜連川(さくら市)に領地を与えました。その後徳川家康により喜連川で喜連川藩を立藩し幕末まで続きました。喜連川藩は4500石程の禄高でしたが10万石の大名格並の格式でした。禄高が低いのに家格が高いために喜連川藩は常に財政的に困窮していました。そのため参勤交代で喜連川を通る東北諸藩を食い物にするしか赤字の藩財政を維持する方法がなく、参勤交代の大名が喜連川を通る時は藩主自らが宿場の前に立ち出迎えました。通って行く大名は必ず挨拶として喜連川藩主に物品を贈る習わしでした。これが喜連川藩の大事な収入でした。何か悲しいお話ですね!古河には現在も古河公方ゆかりの寺院や史跡が残っており、特に古河公方足利氏の古河城の別館であった「公方館跡」や古河公方開基の「徳源院跡」一帯は、「古河総合公園」として、自然や史跡探訪の地となっています。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ100mmソフトF2.8です。

古今集から紀貫之の歌。

 今いくか 春しなければ 鶯ひすも

   ものはながめて 思ふべらなり

(意)あと何日しか春がないので、ウグイスも物憂い様子で思いにふけっているようだ。

詞書に「すもものはな」とあります。この歌は歌の中に李(すもも)の花を読み込んでいます。李も桃も桃の内(すももも ももも もものうち)と昔から言われています。

古今集から清原深養父の歌。

 あふからも ものはなほこそ かなしけれ

   別れむことを かねて思へば

(意)逢ってもすぐに物悲しくなってしまう、それは別れることを先に想像してしまうから。

詞書に「からももの花」とあります。唐桃とは杏(あんず)の事です。この歌の中に「唐桃の花」を読み込んでいます。

ぐひすも ものはながめて 思ふべらなり

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2009年4月 2日 (木)

マリアンちゃんの誕生会と神楽坂「石かわ」での誕生会

3月27日は我が家の♀犬マリアンちゃんの3回目の誕生日で、我が家のサンルームで誕生会をしました。先輩犬のルイ君もご相伴でした。耳が大きいのがマリアンちゃんで少し太り気味なのがルイ君です。翌日3月28日は私の?回目かの誕生日で家族と神楽坂のミシュラン☆☆☆の「石かわ」で食事をしました。さすがにこのお店は美味しかったです。味にうるさい私の家族も大満足でした。以前食べに行ったミシュランに選ばれた「銀座大野」も美味しかったですが、神楽坂の「石かわ」のほうが美味しかったかです。やはり星の数の差はあるのでしょうか!昨年は☆☆だったそうですが今年は☆☆☆になったそうです。2月に行った「とうふ屋うかい」とは比べられないほどの味の差がありました。とうふ屋うかいは雰囲気も星の数に関係したのでしょうね。「石かわ」の予算は食事だけで一人2万円ぐらいです。日本酒の品揃えをもう少し増やしてくれるといいと思います。サービスも至れり尽くせりでした。ご主人も何度か個室に挨拶に見えました。「石かわ」へ行く前に飯田橋の外濠公園へ行ってきました。まだ桜は2分咲き程度でしたが若い人たちが花見酒で騒いでいました。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

新古今集から藤原俊成の歌。

      いくとせの

    春に心を

      つくし来ぬ

    あはれと思へ

    み吉野の花

(意)今まで何年春の桜に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

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2009年4月 1日 (水)

新宿御苑の桜の咲き始め2

3月27日に新宿御苑へ行ってきました。御苑の桜もここのところの寒さで少し足踏みをしているようです。今年の御苑の桜の盛は4月に入ってからだと思います。平年並みより少し早いぐらいでしょうか!御苑の下の池の枝垂れ桜はほぼ満開に近かったです。日本庭園の枝垂れ桜は1分咲きで満開は今週末頃となると思います。レストハウス前の花桃はほぼ満開でした。中の池のカリンはかなり咲いていました。白鷺はイモリを咥えていましたがイモリが暴れるのでなかなか飲み込めずに苦労していました。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

続古今集から平兼盛の歌。

      山桜

    あくまで色を

      見つるかな

    花ちるべくも

    風ふかぬよに

(意)山桜の美しさを心ゆくまで堪能しました。花が散りそうには見えない、風のない穏やかな太平な世にあって。

詞書に「清慎公、月輪寺の花見侍りける時、よみ侍りける」とあります。清慎公とは藤原実頼のことで左大臣のときに月輪(林)寺で花見をしています。その時に平兼盛が詠った歌で左大臣の実頼の治世を褒め称える歌です。つまりはゴマスリの歌なのでしょう。

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