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2008年12月

2008年12月31日 (水)

飛鳥山公園の紅葉2

今日は2008年最後の日ですね。今年は私には非常に忙しかったですが良い年でした。来年からしばらくは悪い年の連続となるでしょう。必死で頑張らないといけませんね!政府なんか信用すると酷い目に合います。

今年は皆様に大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

12月15日の北区の飛鳥山公園です。公園内に渋沢栄一の屋敷の一部が残されています。渋沢栄一は幕末期は尊王攘夷の志に燃え高崎城の乗っ取りや横浜の焼き打ち等を画策しましたが不発に終わりました。後に一橋慶喜に仕え幕臣となり徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会へ行きました。その後徳川昭武に従いヨーロッパを渡り歩きました。明治維新になり大隈重信に説得され大蔵省に出仕しましたが経済政策の違いから井上馨とともに退官し、第一国立銀行(旧第一銀行)の初代頭取に就任して、全国の銀行の設立に関係しました。渋沢栄一は「私利を追わず公益を図る」との考えにより生涯個人の利益を求めませんでした。渋沢栄一は渋沢同族株式会社を設立しましたが、この会社が他の会社の株式を持つ場合は発行株の20パーセント以下に抑えていて、普通は数パーセントしか持ちませんでした。唯一の例外は現在でも存在する東証1部上場会社の渋沢倉庫(株)で26パーセントでした。もともと渋沢倉庫は明治初期に深川河岸にあった渋沢家の庭にあった個人使用していた倉庫から発展したものです。渋沢栄一は医療関係の病院や大学の設立にも関係し、慈恵医科大や聖路加国際病院、日赤など沢山の医療関係の団体の設立の中心人物でした。また女性の教育の観点から女子大学の設立にも深く関係しました。また孤児等の教育にも深く関与し養育院の初代院長にもなりました。渋沢栄一は1926年と1927年の2回もノーベル平和賞の候補になっています。まさに世界的な偉人でした。私の最も尊敬する人です。埼玉三偉人の一人です。他の二人は畠山重忠(鎌倉時代初期の武将)と塙保己一(江戸時代の全盲の学者)です。以前、NHKの大河ドラマに渋沢栄一をとの話がありましたが渋沢栄一は自分を目立たなくする天才で1年間もドラマを続けるような話が少ないとの理由で没になりました。本当に残念でした。調べると色々と面白い話があるのですがね!

カメラはソニーα900と24-70mmVario-SonnarF2.8&シグマ70-300mmです。

宗尊親王の歌を竹風抄から。

      夕されば

    みどりの苔に

      鳥降りて

    しづかになりぬ

    苑の秋風

(意)夕方になると、緑の苔の上に鳥が舞い降りて、庭園を吹く秋風は静かになった。

宗尊親王は後嵯峨天皇の皇子で。鎌倉幕府の要請により6代将軍として鎌倉に下りました。鎌倉幕府初めての皇族将軍でした。その後、幕府に対して謀反を企てたと都へ追われました。謀反とは誰に対しての謀反でしょうね?北条氏への謀反でしょうが位の高いものが位の低いものに対しての謀叛とは可笑しなものです。鎌倉時代にはこの例が沢山あります。鎌倉時代は、まさに弱肉強食で疑心暗鬼の時代でした。みんな不安になって現世の不安から逃れるために来世に希望を持とうとしました。鎌倉時代の仏教の隆盛は現世の不安からだったのでしょうね。みんな宗教にはまって行きました。私のように無神論者にとっては馬鹿ではないかと思います。今の日本は不安の時代に入っています。変な宗教にはまらないようにしないといけませんね!

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2008年12月30日 (火)

大中寺の紅葉

12月6日に栃木県栃木市の太平山神社の麓の大中寺へ行ってきました。大中寺は久寿年間(1154年)に開創されました。当初は真言宗のお寺でしたが、荒廃したために延徳元年(1489年)に快庵妙慶禅師が曹洞宗のお寺として再興し今日に至っているものです。上杉謙信がこのお寺に縁故(叔父が住職だったと言われています)があったため、当時、焼失していた七堂伽藍を上杉謙信が寄進しました。また、永禄11年(1568)関東管領上杉謙信と関東の覇者北条氏康がこのお寺で和睦したと云う話も伝わっています。江戸時代に、徳川家康の信任が厚かった九世柏堂和尚は、寺領百石の御朱印を賜ったり、山林の寄進をも受けて、曹洞宗寺院の管理する関三刹(大中寺<下野国>・總寧寺<下総国>・龍穏寺<武蔵国>)の筆頭の寺院でした。関三刹(かんさんさつ)は江戸末期まで全国の曹洞宗の寺院を三分割して管理し月番で宗務を取り仕切りました。また永平寺の住職は関三刹の住職経験者から選ばれました。さらに、十一世宗演和尚の頃、幕府から、曹洞宗天下大僧録に任ぜられ、大平山大中禅官寺と号して宮中にも参内して禅師号を賜わりました。上田秋成の「雨月物語」にある青頭巾はこの寺を舞台として書かれたものです。この寺院に伝わる七不思議の伝説は有名です。また山門は皆川城の搦め手の門を移築したものです。皆川城は現在の栃木市に居城を持った戦国大名皆川氏で戦国時代は近隣の大名と合従連衡を繰り返しました。皆川広照は豊臣秀吉の小田原攻めでは小田原城に籠城しましたが、落城寸前に徳川家康に投降し徳川家の大名として生き残りました。その後、徳川家康の六男の松平忠輝の養育を任され、忠輝が信州川中島藩12万石に加増移封された時に、付家老として信州飯山藩7万5千石に加増移封されました。しかし、松平忠輝へ何度も諫言しても行動が改まらないため、幕府に訴え出ましたが、逆に不行き届きとして改易されてしまいました。その翌年、松平忠輝は越後高田藩75万石に加増移封されました。しかし、大坂夏の陣で不手際があったとされ兄の将軍秀忠により1616年改易されました。その後、諸方で幽閉され、最後は信濃国諏訪藩に流され幽閉先で亡くなりました。徳川家から松平忠輝が許されたのは1984年で、徳川家18代徳川恒孝によって赦免されました。改易から350年以上経ってからの赦免でした。

曹洞宗の開祖道元の家集「傘松道詠(かさまつどうえい)」から。

      春は花

    夏ほととぎす

      秋は月

    冬雪さえて

    冷(すず)しかりけり

(意)春は桜の花。夏は時鳥。秋は月。冬は雪が冷え冷えとしてすがすがしい。

この歌は川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演をした時にこの歌を引用したことで有名になりました。この歌は道元が1247年執権北条時頼の招きにより鎌倉に下った折に時頼の北の方(正妻)から求められて詠われたものです。

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2008年12月29日 (月)

上野公園の紅葉2

12月8日の上野公園です。カメラはペンタックスK20Dとシグマ18-200mm&ペンタックス50mmF1.4です。

万葉集から山上憶良の貧窮問答歌の短歌。

      世の中を

    憂しと恥(やさ)しと

      思へども

    飛び立ちかねつ

    鳥にしあらねば

(意)人の世は辛い、生きているのは恥ずかしい。そう思うけれども、ここを捨ててどこかへ飛び去るわけにもゆかない。鳥ではないのだから。

貧窮問答歌には「山上憶良頓首謹上」とあります。貧窮問答歌は筑前守として筑紫の任地にあった時の見たままの事象を詠い、それを帰任後に朝廷に報告したのだと思います。筑前守の時の直属の上司は歌詠みとして有名な太宰帥の大伴旅人でした。長歌は12/18に私のブログでアップしましたが、本当に強烈な意味深い歌だと思います。山上憶良が筑紫にいた時は太宰府を中心に北九州に大和の歌詠みたちが偶然参集したかのように見えます。これを筑紫歌壇と呼びました。万葉集には筑紫の大伴旅人の屋敷の歌会で詠まれた歌が沢山あります。

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2008年12月28日 (日)

飛鳥山公園の紅葉1

12月15日の北区にある飛鳥山公園です。飛鳥山公園といえば「さくら」が有名です。この地を桜の名所にしたのは、八代将軍徳川吉宗でした。約280年前、吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのです。こうして江戸の新しいお花見の名所として誕生した飛鳥山は、当時、桜の名所地では禁止されていた「酒宴」や「仮装」が容認されていたため、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しみました。当時は上野の山が桜の名所でしたが上野の山で飲酒やたき火は禁止されていましたので、江戸庶民は飲んで騒ぐことはできませんでした。飛鳥山はそれらが公認されたため落語で江戸の花見と言えば飛鳥山でした。隣には王子神社があり飛鳥山は王子神社の管理地でした。王子稲荷神社は王子神社のそばにありました。飛鳥山は、明治6年、太政官布達によって、上野公園・芝公園・浅草公園・深川公園とともに日本最初の公園に指定され、平成の現在も憩いの場として親しまれています。公園内には明治時代の産業の基礎を作った渋沢栄一が別邸を建て、後に本邸となった屋敷の一部が残っています。渋沢栄一翁は生涯で500の会社や団体の設立に関係し、その会社や団体が一人立ちをすると会社の経営から身を引きました。その点が三井・三菱・住友などの大財閥とは全く違いました。第二次大戦後、占領軍は渋沢同族株式会社を財閥指定しました。占領軍は渋沢栄一一族の財産を徹底的に洗いましたが、さほど財産はありませんでした。渋沢栄一はお金もうけには興味を示さない人だったのです。しかし、渋沢栄一なくして現在の日本の繁栄は語れません。ほとんどの産業の設立に関係しています。元は攘夷思想の塊のような庄屋階級でした。高崎城の乗っ取りや横浜焼き打ちを計画したため幕府に追及され、幕府の追求から逃れるため一橋家に潜り込み武士となり一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えました。私の尊敬する人でもあり、明治・大正期を通じて最大の経済財界人で近代日本の基礎を作った巨人です。

カメラはソニーα900と24-70mmVario-SonnarF2.8&シグマ70-300mmです。

桜の歌を古今集から春歌上の贈答歌。

  あだなりと 名にこそたてれ 桜花

    年にまれなる 人もまちけり  読み人しらず

(意)桜の花は散りやすく不実だと評判こそ立っていますが、一年でも稀にしか来ない人を、散らずに待っていました。

  けふこずは あすは雪とぞ ふりなまし

    消えずはありとも 花と見ましや  在原業平

(意)たしかに、私が待たせたおかげで、桜は今日まで散らずに永らえてくれましたね。もし今日私が訪ねて来なかったら、明日あたりはもう怺えきれず、雪となって降ってしまったでしょう。もっとも、雪でないから消えはしませんが、だとしても、散ってしまったのを人は花と見るでしょうか。

伊勢物語17段に同じような歌が載っています。久しく訪れなかった人の家へ、桜の盛りの季節、業平が訪れた時に、そこの家の人が「毎年咲く花の方が、何年も来てくれなかったあなたより、ずっと誠意がありますね」と皮肉ったのである。業平も負けずに「今日は覚えていてくれても、明日になれば私のことなど忘れて、別の男へ心を移してしまうだろう。あだなのは貴方のほうだ」と切り返したのである。 あだなりと 名

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2008年12月27日 (土)

伊豆河津町 バガテル公園の秋薔薇

11月23日の伊豆の河津町のバガテル公園の秋薔薇です。ワンちゃん達は我が家のルイ君とマリアンちゃんです。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。薔薇はかなり散ってしまっていました。ワンちゃんは黄色い引き綱がオスのルイ君で、赤い引き綱がメスのマリアンちゃんです。

玉葉集から源実朝の歌。

      伊豆の国や

    山の南に

      出づる湯の

    はやきは神の

    しるしなりけり

(意)伊豆の国の山の南に湧き出る湯がほとばしる速さは、神の霊験あらたかなしるしであった。

源実朝とは鎌倉幕府の3代将軍で、兄の2代将軍頼家が北条氏を討とうとして北条氏に殺されたため、北条氏に擁立され3代将軍となりましたが、甥の公暁により鶴岡八幡宮で殺されました。この暗殺の実行者は公暁ですが、黒幕は三浦義村だったと言われています。実朝と北条義時の二人を同時に暗殺しようとしたのですが、義時は事前に察知して逃れました。義時は実朝が三浦義村に殺される事を承知していて実朝を殺させておいて三浦氏を打ち滅ぼそうとしたとの見方もあります。三浦義村は謀が北条義時にバレタことを知って公暁を殺して無関係を装いました。

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2008年12月26日 (金)

太平山(おおひらさん)の紅葉

12月6日の栃木県栃木市の太平山へ行って来ました。前回11/30に行った時は紅葉見物の観光バスや自家用車が押し掛けていて大混雑で駐車場へ車を入れる事すらできず写真も1枚も撮れずに通過しただけでした。紅葉は盛りを過ぎていて前日の大雨と大風でかなりの葉が散ってしまいました。前半の写真は謙信平からの関東平野と散り残った紅葉です。謙信平は上杉謙信が北条氏康と関東の覇権を競って何度か戦ったうちの永祿11年(1568)9月に太平山の麓の大中寺で和議を結び兵を引く時に謙信平で騎馬隊の訓練をした地と言われ、上杉謙信はここからの眺望で関東平野の広さにビックリしたとも言われています。後半の写真は太平山神社の随神門と本殿までの参道です。栃木市は戦国時代は皆川氏の本拠地でした。皆川城城址は栃木ICを少し佐野方面に戻った皆川城CCのそばにあります。カメラはソニーα900と24-70mmVario-SonnarF2.8&シグマ70-300mmです。

栃木市出身の文豪山本有三の「路傍の石」から。

  たったひとりしかない自分を

   たった一度しかない一生を

    ほんとうに生かさなかったら

     人間うまれてきたかいが

      ないじゃないか

この文学碑が謙信平にあります。山本有三は栃木市の呉服商の家に生まれ浅草の呉服商へ丁稚に出されたのち一高、東京帝大独文科を卒業しました。一高で1年留年して芥川龍之介と菊池寛と同級生となりました。昭和9年には共産党との関係を疑われ逮捕されました。戦後、山本有三は貴族院議員(旧帝国憲法では衆議院と同格で皇族議員・華族議員・勅任議員で構成された)となり、昭和22年の第一回参議院選挙では立候補して全国区第1位で6年間参議院議員を務め緑風会(参議院議員の無所属議員の会派で第一回参議院本会議が開会された時は92名の最大会派となり戦後の二院制の参議院の独立性と知性を表しました。参議院定数は250名です)の中心人物の一人として活躍しました。

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2008年12月25日 (木)

唐沢山神社の紅葉2

11月30日の栃木県佐野市の唐沢山神社です。唐沢山は江戸時代初めまでは佐野氏の居城でした。戦国末期に上杉謙信から10回に渡り攻撃されましたがすべてを撃退したほどの名城で関東7名城(佐竹城<太田城>、宇都宮城、唐沢山城、金山城、前橋城、忍城、川越城)の一つと言われています。佐野氏は上杉方と北条方の間を泳ぎ回りました。その後足利長尾氏との戦いに敗れ一時断絶しますが、豊臣秀吉により再興しました。その後徳川家康に従いました。江戸時代初めに山城禁止令のためとも、江戸が燃えているのを唐沢山城から見ていたためとも言われていますが幕府より唐沢山城の廃城を申し渡され、新たに春日岡に新城を築城中に大久保長安事件に連座して改易されてしまいました。この時に同じように戦国大名の里見氏と北条氏が何度も激突した下総国の国府台城(市川市里見公園)も江戸城を俯瞰できるとの理由から廃城とされました。

新古今集から後鳥羽院の歌。

      野原より

    露のゆかりを

      尋ねきて

    わが衣手に

    秋風ぞふく

(意)遠い野原から露と涙の縁で秋風がやってきて、私の衣に吹いてきます。

カメラはソニーα900と24-70mmVario-SonnarF2.8&トキナー80-200mmF2.8です。

昨日の衆議院の本会議での自民党の渡辺喜美元行政改革担当相は立派でした。おまけに処分が戒告処分とは呆れたものです。その程度の処分なら処分しない方が大人でした。自民党は滅茶苦茶ですね。政治家が自分の信念に基づいて行動を起こすのを立派な政治家と言うのでしょうね。今の自民党には立派な政治家はいないのですね。みんな自分のポストにしがみついて特権を手放したくないのでしょう。官僚の上にのって楽をしてきたから世間の事は分からないのでしょう。年を越せないかも知れない人達を切り捨てでも議員の椅子にしがみつく醜い日本人、それは与党の政治家ですね。麻生は一刻も早く解散をして国会を正常化しないと日本は沈没します。麻生はそんなことアッソ~なのでしょうね!自分さえよければ関係ないのでしょうね。呆れ返った人物です!そのアソウではなく阿呆(アホウ)に解散しないように進言する幹事長も幹事長です。昔から細田も大した男ではないと思っていました。細田の家とは親戚ですがあきれ返りました。恥ずかしい限りです。

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2008年12月24日 (水)

日比谷公園の秋2

12月4日の日比谷公園です。この公園のニャンコちゃん達は丸々と太っています。ホームレスの人達から可愛がってもらい食べ物を分けてもらっています。ホームレスの人達は優しいのですね。同じ境遇なのだからでしょうかね。ここの公園にいるホームレスの人達は何処で寝るのでしょうね。寒いでしょうね。これから寒い中で凍死者も出るかも知れません。ホームレスの多くは好きこのんで路上生活をしている訳ではないでしょうに。かなり前に与野駅から5分程の線路を跨ぐ橋の階段の下に路上生活者が数人住み着いていました。彼等は暇の時に道路を清掃したりしてくれていました。また深夜に駅近くの暗い道路の脇の小さな公園のベンチに座って遅く帰ってくる人達に「御苦労さん」と声をかけていました。最初のうちは不気味でしたが、だんだん慣れてくると街の治安にはなかなか良いものだと思うようになりました。少し不思議な共存関係かも知れません。最近は彼等を見かけなくなりました。日比谷公園の紅葉はモミジの赤い色と黄色い銀杏の色が混ざり合って素晴らしいです。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

西行法師の山家集から。

      くれなゐの

    色に袂の

      しぐれつつ

    袖に秋ある

    ここちこそすれ

(意)恋人に飽きられて流す涙が木の葉を紅葉させる時雨のように袖に落ち、紅色に変わった袖に秋があるような心地がする。

今日はクリスマスイブですね。私には全く関係がありません。ブッシュ不況の中、少しでもお金を使って派手にパッとやるのも良いと思います。使ったお金はいずれ自分のところに帰ってくると信じて使いましょう。

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2008年12月23日 (火)

伊豆高原 朝焼と一碧湖

11月23日の伊豆高原の朝焼と一碧湖です。この朝焼は伊豆高原からの相模灘の朝焼です。相模湾は三浦半島から湘南海岸の伊豆半島の根元辺りまで狭い地域を示し、相模灘とはもっと広い海域を示すようです。写真の中の太陽光が龍が上に登るように見える(3~5枚目)のが万葉集で柿本人麻呂が詠った「かぎろひ」ではないかと私は思います。一碧湖はかなり紅葉が進み過ぎていて終わりかけでした。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

炎(かぎろひ)は柿本人麻呂の長歌にも歌われています。亡くなった妻を偲んだ挽歌です。

うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走出(はしりで)の 堤(つつみ)に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど たのめりし 児らにはあれど 世の中を 背(そむ)きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白妙(しろたへ)の 天(あま)領巾(ひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物し無ければ 男じもの 腋(わき)ばさみ持ち 吾妹子と 二人わが宿(ね)し 枕づく 嬬屋(つまや)の内に 昼はもうらさび暮し 夜はも 息づき明(あか)し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふ因(よし)を無み 大鳥の 羽易(はがい)の山に わが恋ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば 石根(いはね)さくみて なづみ来し 吉(よ)けくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

(意)妻はずっとこの世の人だと思っていた時、手を取り合って私たち二人が見た、突き出た堤に立っていた槻の木の、あちらこちらの枝に春の葉がたくさん茂っていたように、思い続けた妻であったが、頼りにしてきた妻であったが、無常の世の道理に背くことはできず、陽炎(かげろう)がゆらめく荒野に、真っ白な天女の領巾に覆われて、鳥でもないのに朝早く飛び立ってしまい、夕日のように隠れてしまったので、妻が形見として残していった幼な子が、何かを欲しがり泣くたびに、与えるものも無く、男だというのに脇に抱えて、いとしい妻と寝た離れの中で、昼には心寂しく過ごし、夜にはため息をついて明かし、いくら嘆いてもどうしようもなく、恋焦がれても逢えず、羽易の山に妻がいると人が言ってくれるので、大地に根を張ったような大きな岩を踏み分けて、骨折りながらやって来たものの、その甲斐も無い。ずっとこの世の人だと思っていた妻が、玉の光ほどにほのかにも見えないことを思うと。

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2008年12月22日 (月)

六義園の紅葉2

12月3日の文京区の六義園です。この庭園を作ったのは柳沢吉保です。小石川後楽園と並んで江戸での二大大名庭園と言われています。柳沢吉保は将軍綱吉の懐刀として500石ほどの身分から大名になりました。使用カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&シグマ70-300mmです。シグマも古いレンズで少しガタが来ていますが良く写ります。

柳沢吉保は川越藩の藩主の時に、三富(さんとめ)新田(現在の所沢市中・下富と三芳町上富)の開発をしたことで有名です。武蔵野は関東ローム層という赤土におおわれた台地で雨が降っても水はすぐ地面にしみ込んでしまい土は栄養分の少ない土地でした。広大な平地でありながら、古代、中世の武蔵野は、水が乏しく人が暮らしていくのは難しい場所でした。江戸時代までは、川のそばや台地のふちの湧き水の出るところだけに、人が集まり集落ができ、その周辺にわずかな畑が作られただけでした。その後、川越藩主松平信綱は野火止用水を完成させその分水を引く事により武蔵野は新田開発のラッシュとなりました。柳沢吉保が川越藩主になった時に三富地区は入会地で領有者がはっきりと決まっていませんでした。川越藩は幕府に訴え、川越藩の藩地として承認されました。吉保は三富で新田開発をするために用水路を引く事を計画しましたが失敗し、用水路の代わりとして深井戸を掘る事で対応しました。この深井戸の深さは25メートル以上だったそうです。当時としては超一級の技術でした。時間はかかりましたが栄養分の少ない赤土に落ち葉などを植え込み徐々に耕作に適した土に換えて行きました。新田の1区画は1戸で5町歩でした。現在の日本農家の平均の3倍以上の広さです。入植地の地割は短冊型の区画で、道路に面した表側から屋敷、次に耕地、そしていちばん後方に平地林が配置されました。屋敷には周囲に屋敷林として竹、ケヤキ、スギ、ヒノキ、カシなどが植えられ、風から屋敷を守る役目を果しました。また、屋敷林は薪として堆肥の原料として生活に欠かせない役割をもっていました。入植者には1戸につき3本の楢の苗木が与えられました。

万葉集から読み人しらずの歌。

      武蔵野は

    月の入るべき

      山もなし

    草よりいでて

    草にこそ入れ

この歌のような景色が古代から江戸時代初めまでの武蔵野だったのだと思われます。ほとんどの土地は痩せていて樹木は少なかったのだと思います。現在の武蔵野の雑木林は長い時間をかけて植樹や自然の林等が人の手により大切に世話をされて徐々に増えて来たのだと思います。残念ながら現在は宅造等により大半がに失われています。

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2008年12月21日 (日)

武蔵丘陵森林公園の秋2

11月29日の埼玉県滑川町の国営武蔵丘陵森林公園です。一般的には「森林公園」と呼ばれています。この公園は比企北丘陵の北部にあります。比企北丘陵は東松山市・嵐山町・滑川町・小川町にまたがる丘陵地帯で昔から交通や文化の発展した場所です。古代では関東平野の平野部より発達し開発が進んでいました。比企丘陵は外秩父山塊から東に半島のように突き出た台地で標高は100メートル前後の山々と丘陵で構成されています。狭義では比企丘陵はこの比企北丘陵地を指しますが、比企丘陵を広義では比企北丘陵と比企南丘陵・吉見丘陵など全体を総称するのが普通かもしれません。簡単に言えば奥武蔵高原以北の山岳丘陵地域全体を指すのだと思います。このあたりは私にもよく分からないところがあります。この比企丘陵は縄文・弥生時代の遺跡も多く、特に丘陵と平地の堺には鎌倉街道や古代の官道も走っていたようで、歴史上はあまり出てきませんが非常に重要な地域だったと思われます。またこのあたりは現在でも交通の便はあまり良くなく自然がまだ残っている地域で秋の紅葉の隠れた名所が多い所で一年を通じて多くのハイキングコースがあります。

カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。チワワは9匹いました。みんな可愛かったです。一応血縁関係があるようでした。

万葉集から読み人知らずの歌。

      黄葉(もみちば)は

    今はうつろふ

      我妹子が

    待たむと言ひ

    時の経(へ)ゆけば

(意)黄葉(もみじ)が今ではもう散っていってしまう。私の妻が「それまで待っている」と言った時が過ぎていってしまった。

この歌は遣新羅使の誰かが出帆後に対馬に風待ちで停泊しているときに詠った歌です。早く新羅へ行って帰らないと浮気をされてしまう・・・・!当時の船旅は潮待ち風待ちの旅で予定は全くたちませんでした。

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2008年12月20日 (土)

渡良瀬遊水地の朝

12月6日に渡良瀬遊水地へ行ってきました。前日雨だったので霧が湧くかと思ったのですが残念ながら湧きませんでした。早朝家を出る時に小雨が降っていました。諦めようかと思ったのですが、とにかく行ってみようと家を出ました。途中、東北道の羽生SAあたりで東の空は黒い雲に覆われていました。渡良瀬遊水地に着いた頃は少し雲が切れはじめましたが霧が湧く気配はありませんでした。夕焼けは日が沈むにつれて何度も綺麗に焼けてくるチャンスがありますが、朝焼けはチャンスは1回だけです。この日の朝も太陽が上がる寸前に突然一瞬にしてオレンジ色に燃えてきました。カメラはソニーα900と24-70mmVario-SonnarF2.8&シグマ70-300mmです。

万葉集から有名な柿本人麻呂の歌。

       東(ひむがし)の

    野(の)に炎(かぎろひ)の

      立つ見えて

    かへり見すれば

    月かたぶきぬ

(意)東の野に曙光が見えて、後ろを振り返ってみると、月は既に西に傾いている。

原文は「東野炎立所見而反見為者月西渡」 です。賀茂真淵(江戸時代の国学者で歌人)の書き著した「萬葉考」で上記のように読まれるまでは「あづまのの けぶりのたてる ところみて かへり見すれば 月かたぶきぬ」と読まれていました。万葉仮名の読み方は難しいようですね。最近まで「ひむがしのに」と読んでいた先生もいましたが今は「ひん(む)がしのに」と読まれています。

「かぎろひ」は朝の日の出前に空が微かに赤く焼ける陽炎のような現象を指すようです。いまだに何を指すのかは学者の間でも分かりません。普通の朝焼けとは違うのかも知れません。朝焼けの前兆の様なものかも知れませんね。多分これが朝焼けの(かぎろひ)だと思われるものを11月下旬に伊豆高原で見ました。近々その画像をアップします。朝焼けの向うに見える山は筑波山です。関東平野ではどこからでも見える山です。富士山もどこからでも見えますが古代の関東平野に住んでいた人々には筑波山の方が近くてなじみ深かったのかも知れません。

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2008年12月19日 (金)

本土寺の紅葉2

12月2日の千葉県松戸市の本土寺です。カメラはソニーα900と24-70Vario-SonnarF2.8&トキナー80-200mmF2.8です。やはりα900とツァイスレンズの組み合わせは素晴らしいと思います。

新古今集から藤原顕輔(あきすけ)の歌。百人一首の歌でもあります。

      秋風に

    たなびく雲の

      絶えまより

    もれ出づる月の

    影のさやけさ

(意)秋風が吹き、幾重にもたなびいている雲の切れ目から、いま洩れ出た月の光何と鮮やかなのでしょう。

藤原顕輔は詞花和歌集の撰者です。この歌は名歌の中に入ると思います。

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2008年12月18日 (木)

上野公園の紅葉1

12月8日の上野公園です。上野の山には色々な建物や神社仏閣があります。いまは路上生活者のメッカ。これから本格的に始まる大不況はもっと上野の山に集まる路上生活者を増やすでしょう。今は何かルールのようなものがあって日中はブルーのテントをたたんで何か所かにまとめているようです。夕方になるとたたまれたテントを作り直して夜を過ごすようです。日中は上野公園のベンチや歩いていける範囲の公園などで時間をつぶしながら食料を探して回っているようです。ここに集まる路上生活者には、それぞれ一人づつの人生があったのでしょう。これから寒い冬をどのようにして過ごすのでしょうか?雨が降れば雨を避ける場所をさがさないといけません。この日も1つのお弁当を二人で分け合って食べている人達がいました。昼間からお酒に酔ってご機嫌な人もいました。じっとベンチに座っている人もいました。最後の写真の人のように地面に座ってじっと瞑想している人もいました。みんな明日からどのようにして生きて行くのでしょうか?私も一歩間違えば彼らの仲間入りしていたかも知れません。

政府は全く手を打とうとはしていません。実際はヤバイと思っているのでしょうが!これは官僚のサボタージュです。つまり偉そうにしている自民党国会議員はまったく政策作成能力がなかったことの証明ですね!大分県と大分県の杵築(きつき)市の大英断に拍手です。地方自治体が住民の生活を守るために何もしない何も出来ない政府に対して不信任を出したようなものです。麻生総理はこれらの動きについて記者から質問されると「結構な事だと思います!」フザケタ話です。貴方達がなにもしないから地方自治体で動き始めたのじゃなのですか!

いまの日本は小泉改革でアメリカの肉強食の理論に従うことを決めてしまいました。政治は一度決めて走り出すと絶対止まる事は出来ないのは歴史が証明しています。これを止めるのは革命か戦争しかないのも歴史が証明しています。日本は両方とも出来ません。残された道はあるのでしょうか?これからイバラの道でしょうね!民主主義は多数決です。国民が多数で小泉改革を支持した結果です。今さら後戻りはできません。これから医療・介護・中小零細企業への経済的な手当は、まず簡単には出来ないでしょう。これは民主党が政権を取っても変える事は不可能だと思います。考えてみてください、これから医者を増やすと言っても一人前の医者になるのに10年かかります。すべての事にお金と時間がかかるのです。国民の生活を守る行政サービスは赤字でいいのです。無駄な出費はチェックすべきですが、行政サービスの赤字を補てんするために私たちは税金を払っているのではないのでしょうか。そこに市場経済を持ち込めば滅茶苦茶になるに決まっています。無駄な道路を作るために税金を払っているのではないでしょう!明日は貴方がリストラにあうかもしれませんよ!どうしますか!政府の笛と太鼓に乗せられてローンを抱えていると大変な事になります。

万葉集から山上憶良の貧窮問答歌

風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらね 髭(ひげ)かき撫でて 我(あれ)を除(お)きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我(われ)よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞(こ)ひて泣くらむ この時は 如何にしつつか 汝(な)が世は渡る
天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる 襤褄(かかふ)のみ 肩にうち懸け 伏盧(ふせいほ)の 曲盧(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に 囲み居て 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のど吟(よ)ひ居るに いとのきて 短き物を 端(はし)きると 云へるが如く 楚(しもと)取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 斯(か)くばかり 術無きものか 世間(よのなか)の道

(意)風まじりの雨が降る夜、雨まじりの雪が降る夜は、どうしようもなく寒くてたまらず、粗塩を少しずつかじりながら糟湯酒をすすったりして、絶え間なく咳き込み、鼻汁をびしびしすすり上げ、大してありもしない髪を撫でては、私のように立派な人間はいないと誇ってみるけれども、やはり寒くて仕方がない、それで麻の夜具を引っかぶり、布の肩衣をあるだけ重ね着しているのだが、それでも寒い夜を、私より貧しい人たちの父や母はさぞ飢えて凍えていることだろう。妻や子は腹をすかして泣いているだろう。こんなとき、あなたたちはどのようにしてこの世を渡っていくのか。
天地は広いとはいえ、私のためには狭くなったのか。太陽や月は明るいというものの、私のためには照ってくださらないのか。人も皆そうなのか、私だけそうなのか。幸いに人と生まれたのに、人並みに耕作して働いているのに、綿も入っていない布の肩衣の、まるで海松のように裂けて破れて垂れ下がった襤褸(ぼろ)のみを肩にかけ、掘っ立て小屋で傾きかけた中に、地面に直接わらを敷き、父や母は上の方に、妻子は下の方に、身を寄せ合って嘆き悲しみ、かまどには火の気を立てることもなく、こしきにはくもの巣がかかり、飯を炊くことなどすっかり忘れて、ぬえ鳥のように弱々しく鳴いているのに、すごく短い物の端をさらに切り取るという言葉のように、鞭(むち)を持った里長の声は、寝床にまでやって来ては呼び立てる。これほどにどうしようもないものなのか、世間を渡る道とは。

こんな世の中になってもらっては困りますね。皆さん山上憶良の貧窮問答歌をじっくり味わってください。

下記に「あしなが育英会」のHPのアドレスを載せます。ぜひ一度覗いてみてください。会の運営は大変危機的な状態にあると思います。あしなが育英会への寄付金は税金控除はされません。何故なのか?理由は簡単です。交通遺児育英会は政府と近しい企業と天下り官僚によって維持されていますので寄付金は税金から控除されます。しかし、あしなが育英会は天下り官僚を受け入れていません。税金の控除について天下り官僚を受け入れる事が条件でした。あしなが育英会は拒否したため税金の控除を受けられません。私も20年以上「あしながおじさん」をやっています。これからは助け合いの気持ちが大切だと思いますが、仕事をしているとそんな簡単にはいきません。

http://www.ashinaga.org/about.htm

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2008年12月17日 (水)

日比谷公園の秋1

12月4日の千代田区の日比谷公園です。夕方近くなってしまい少し暗かったですが何とか撮りました。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。日比谷公園は明治36年開園のドイツ式洋風公園です。公園内の銀杏の巨木は「首かけイチョウ」と呼ばれていて公園の設計者の本多静六博士が現在の日比谷交差点にあった大銀杏を首をかけて現在地に移植を成功させたものです。隣接の松本楼の過激派の焼き打ち事件の時に被害を受けましたが今も元気にあたりを圧倒しています。雲形池を囲むモミジの紅葉は見事でした。沈みゆく太陽の光を斜めから受けてモミジが輝いていました。カメラはペンタックスK20Dです。

万葉集から長忌寸娘(ながのいみきのおとめ)の歌。

      めづらしと

    我が思ふ君は

      秋山の

    初黄葉に

    似てこそありけれ

(意)素敵だと思っていたあなたは、秋の初黄葉のような方だったのですね。気がつきませんでした。

天平10年(738年)10月17日に橘朝臣奈良麻呂(たちばなのあそんならまろ)の屋敷で行われた宴での歌で、この歌の前後にこの宴で歌われた歌が載っています。少し意味が分かりませんね。昔から素敵だと思っていた貴方が最近少し年を取ってきたと御茶目に詠ったのでしょうか?長氏は百済からの渡来人で東漢(やまとのあや)氏族に属します。長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)は万葉集に16首の歌を残しています。長忌寸娘は娘かも知れません。万葉集をはじめ近代の和歌集までを少し調べたのですが銀杏を詠った歌は全く見つける事が出来ませんでした。唯一、江戸時代の賀茂真淵に一首あるだけでした。それも土地の名前の「秩父」の枕詞で「ちちの木」として載っていました。ちちの木とは銀杏の事です。不思議な事ですね。これほど綺麗な黄色い紅葉を見せてくれているのに。万葉集時代の黄葉とは銀杏でしょうか?違うでしょうね。

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2008年12月16日 (火)

名主の滝公園

12月3日に東京都北区の名主の滝公園へ行って来ました。毎年数回はこの公園へ行っています。少し暗い感じがしますが、いつも静かな公園で心が落ち着きます。東京都の小金井市から隅田川へとそそぐ石神井川は、北区の王子付近では滝野川と名前を変えます。
江戸時代には滝のように流れが早かったことから名が付いたそうで、王子で王子七滝と呼ばれる7つの滝がありました。7つの滝の内、現存するのはこの公園にある名主の滝だけです。名主の滝公園は鬱蒼とした木々と流れ、そして4つの滝で構成された回遊式の庭園で、晩秋の季節にはモミジが鮮やかな赤い色や黄色い色に染まります。公園の広さはさほど広くなく20分ほどで回れます。江戸時代の安政年間(1854~1860)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に庭園を開いたのが始まりで、“名主の滝”の名前の由来もここから来ました。庭園として整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからでした。昭和13年には、株式会社精養軒が買収し、食堂やプールなどが作られ公開され続けてきましたが、空襲により焼失し昭和35年東京都により公園として公開されました。この公園は穴場中の穴場だと思います。真夏もこの公園は涼しくて気持ちのいい公園です。北区役所に名主の滝の公園の紅葉の時期を電話で尋ねたのですが「この公園は格別紅葉が目立つ公園ではありません」との回答でした。どうしてどうして名主の滝公園は大した公園ですよ!北区役所さん。カメラはソニーα900と24-70Vario-SonnarF2.8とシグマ70-300mmです。

新古今集から藤原隆家と藤原実方の離別歌。

  別れ路は いつもなげきの たえせぬに

    いとどかなしき 秋の夕暮   隆家

(意)人との別れはいつも歎きの絶えないものであるのに、季節柄いっそう悲しい秋の夕暮ですよ。

  とどまらむ ことは心に かなへども

    いかにかせまし 秋の誘ふを   実方

(意)都に留まっていることは願うところですけれども、どうすればよいのでしょう、暮れてゆく秋が一緒に行こうと誘うのを。

藤原実方は宮中で藤原行成から侮蔑の言葉をかけられたときに手に持っていた笏(しゃく)で行成の頭を叩き乱暴をしたとのことで一条天皇より「歌枕見てまいれ」と懲罰的人事で陸奥守として陸奥国へ追われその地で亡くなりました。都では清少納言の恋人の一人でした。この二つの歌は別れに際して親友の中納言隆家から贈られた歌とそれへの返歌です。藤原実方はどのような道で陸奥まで旅したのでしょうね。古代日本の律令制では地方広域行政区分は五紀畿七道(明治維新直後蝦夷地に北海道を置きましたので五畿八道になりました)に分けられました。この頃はすでに武蔵国は東山道から東海道へ行政区分が変わっていましたので東海道に属する国を通り富士山の南を通って武蔵国・下野国を抜けて陸奥の国まで赴任したのでしょうね。武蔵国が東山道に属していた古代は信州から上野国・下野国を通って陸奥の国へ行きました。昔の官道は各国の国府を繋いでいました。古代の役人の任地への赴任は目的地までは各国の国府経由で行きました。古代の行政区分についてはそのうちブログにアップする事があると思います。

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2008年12月15日 (月)

六義園(りくぎえん)の紅葉1

12月3日に文京区の六義園へ行ってきました。やはりこの庭園はモミジの紅葉が綺麗なところです。夜のライトアップされた紅葉とは違っています。六義園は柳沢吉保が力をこめて作った庭園だと思います。柳沢吉保は和歌への造詣も深く六義園の名前は古今集からの六義(むくさ)から取ったとされています。六義とは中国の最古の詩篇である詩経(しきょう)に載っている「風・雅・頌・賦・比・興」の6つです。風・雅・頌が体裁上のスタイルであるのに対し、表現上には賦・比・興という3つのスタイルがあり合わせて六義(りくぎ)となります。「詩経」は周の時代に作られたと言われ周詩とも言われています。その周詩を孔子が編集したと言われています。柳沢吉保は五代将軍徳川綱吉が館林藩主だった時に小姓として仕え綱吉が将軍となるときに幕臣となりました。その後累進して将軍の側用人として出世し大名に取り立てられ川越藩主となりました。その後、老中から大老格となり六代将軍に甲府藩主の松平綱豊(将軍徳川家宣となりました)が決まり家宣が江戸城の西の丸に移るとその後を継いで甲府藩15万石の藩主となりました。甲府藩主は歴代将軍に非常に近い親族が藩主になる事が多い藩でした。なお、徳川の姓を名乗れるのは宗家当主と世嗣と御三家の当主だけでした。それ以外の親族・親戚は松平姓を名乗りました。

カメラはソニーα900と24-70mmVario-SonnarF2.8とシグマ70-300mmです。

古今集から藤原敏行の歌。

      白露の

    色はひとつを

      いかにして

    秋の木の葉を

    ちぢにそむらむ

(意)露の色は一色なのに、どうして秋の木の葉を色々な色に染めるのだろうか。

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2008年12月14日 (日)

京都 東福寺の紅葉

11月18日に東福寺へ行って来ました。東福寺は摂政・九条(藤原)道家が嘉禎2年(1236)から、19年もの年月をかけて、聖一国師を開山として造営したものです。また、京都五山のひとつで、臨済宗東福寺派の大本山です。奈良の大寺のように大きく、興寺のように盛大を極めた寺に…とそれぞれ一字ずつとって「東福寺」と命名されました。本堂と開山堂を結ぶ 「通天橋」の一帯は、洗玉澗と呼ばれる渓谷で、紅葉の名所となっていて紅葉の季節は芋の子を洗うような混み方です。ここのモミジは宋からの伝来したモミジと言われている「通天モミジ」と呼ばれている三つ葉楓です。昔はここには桜が植えられていたそうですが「後世に遊興の場になる」と伐採され三つ葉楓が植えられたと言われています。境内の25の塔頭も名寺が多く、虹の苔寺という愛称をもつ光明院や、重要文化財の不動明王を安置する同聚院、雪舟の築造と伝える鶴亀の庭がある芬陀院(ぶんだいん)、九山鉢海の名園をもつ霊雲院など見どころがいっぱいのお寺です。今回は時間がありませんでしたのでモミジだけ見てきました。来年はゆっくりと東福寺の塔頭を回ってみたいと思います。

続後撰集から東福寺を作った九条道家の歌。

      よのつねの

    人より君を

      たのめとや

    契かなしき

    身とむまれけん

(意)誰しも頼みに思う貴方ですが、誰よりもまして貴方に一身を託せざるを得ない宿命に生まれついた我が身。そんな私をいとおしくさえ思います。

この歌は承久の変の5年前に詠われた歌です。この歌の「君」は後鳥羽院を指しています。九条道家は摂関家の嫡男で仲恭天皇の時に摂政になります。承久の変後に道家は鎌倉幕府に対し遠島された後鳥羽院と順徳院の還京を働きかけていましたが、不調に終わりました。なお、鎌倉幕府第四代将軍は九条道家の三男の藤原頼経(よりつね)です。三代将軍の実朝が暗殺されて執権北条義時は朝廷に皇族の将軍としての下向を願いますが、後鳥羽院に拒否をされたため摂政だった九条道家の3男で当時2歳の後の頼経を鎌倉へ迎え入れました。頼経は源頼朝の妹の曾孫にあたります。頼経は8歳で元服し15歳年上の二代将軍だった頼家の娘「竹御所」と結婚し翌年第四代将軍として宣下を受けました。この間7年間は鎌倉の将軍は不在でした。この後、都の九条道家と鎌倉将軍頼経親子は鎌倉幕府内の反北条勢力と手を結び北条一族の名越光時を中心に北条家得宗家(北条家嫡流)への反乱の動きを強めましたが、事前に漏れたため未遂に終わりました。この騒ぎを「宮騒動」とも「寛元の乱」とも呼ばれています。この騒動の寸前に将軍頼経は執権北条経時により将軍の座を降ろされ6歳の子供の頼嗣が第五代将軍となりました。その2年後に執権北条経時は亡くなり弟の時頼が執権職を継ぎました。この時を好機と見た反北条派は動き出したのですが得宗家に機先を制せられ反乱は未遂に終わりました。この翌年に宝治合戦が起こり鎌倉を囲うように三浦半島に拠点を持つ巨大氏族三浦一族は滅ぼされてしまいました。三浦氏は寛元の乱にも加担していたと言われています。三浦氏は頼朝の旗揚げ以来の御家人で北条氏とも協調関係にありましたが徐々に敵対するようになりました。三代将軍源実朝の暗殺は実際は執権の北条義時も同時に暗殺しようとした事件で義時は事前に察知して仮病で逃れ、将軍実朝が殺されることを想定して三浦氏を討つ準備をしていたとも言われています。この暗殺事件の黒幕は三浦泰村と言われ、実朝を暗殺した公暁は三浦泰村の門前まで逃れてきましたが、その場で三浦の家人に討ち取られてしまいました。口封じだったと言われています。鎌倉時代は何となく暗い時代でいろいろと複雑な事件が連続して起こりました。鎌倉の御家人たちは疑心暗鬼で何時何処から攻められるか分かりませんでした。鎌倉は狭いのでどの御家人も兵は少数しか置けず、万一の時には自分の所領から呼び寄せなければいけません。お互いに不安だったと思います。鎌倉は三浦半島にあり、周りを三浦氏一族で固められていて、たぶん北条氏としては伊豆半島から兵を呼び寄せても途中で三浦氏に遮られる不安が常にあったのだと思います。当時、攻め滅ぼされた御家人の所領は攻めた皆で掴み取りが原則でした。色々な不安が鎌倉時代を通して御家人や地下人達が救いを求めて宗教への傾斜となり仏教の色々な宗派が生まれてきたのだと思います。

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2008年12月13日 (土)

本土寺の紅葉1

12月2日に千葉県松戸市の本土寺へ行って来ました。ここの紅葉は首都圏では屈指の紅葉の寺院だと思います。私がここを知ったのは10年ほど前に中国人の知人から聞きました。なんで日本人がここを知らないのかと言われましたが、それまで名前も聞いたことがありませんでした。前夜からの大雨が朝まで残り小雨の中での写真の撮り始めとなり片手で傘を持っての撮影となりました。カメラはソニーα900とVaria-Sonnar24-70mmF2.8とトキナー80-200mmF2.8とカメラ・レンズともに超重量級でしたので傘をさしての片手撮りはかなりきつかったです。やはり手ぶれ補正が付いているデジカメは良いですね!途中から雨は上がって来ましたが曇天でした。

新古今集から藤原家隆の歌。

      露しぐれ

    もる山かげの

      下紅葉

    ぬるとも折らむ

    秋のかたみに

(意)露のような時雨が絶えず洩れ落ちる、守山の山陰の下紅葉、濡れようとも折り取って持ち帰ろう。過ぎ行く秋の思い出として。

「もる山」とは滋賀県守山市のことで東山道の宿場町です。「漏れる(濡れる)」との掛詞。

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2008年12月12日 (金)

石山寺の紅葉2

11月17日の石山寺の続きです。この日の夜はテレビ局の中継があったようで、境内はテレビ局の中継の準備で大騒ぎでした。やはり源氏物語千年紀だからでしょうか?石山寺の紅葉も素晴らしかったです。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

清少納言の書いた枕草子194段に「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は釈迦物の御すみかなるがあわれなるなり石山。粉河。志賀」と書かれています。

後拾遺集から清少納言の歌。百人一首の歌でもあります。

      夜をこめて

    鳥のそらねに

      はかるとも

    よに逢(あふ)坂の

    関はゆるさじ

(意)まだ夜が深いうちに鶏の鳴き声を真似て騙そうと思っても、函谷関ならばともかく、逢坂の関は決して通ることを許さないでしょう。

詞記に『大納言藤原行成が私と雑談しました時に、内裏の物忌に参内するというので急いで帰って、翌朝、「鶏の声に促されまして(慌ただしく帰ってしまいました)」と言って寄こしました。そこで私は「深夜のうちに鳴いた鶏の声は、函谷関の故事でしょうか」と言い遣ったところ、折り返し「函谷関ではなく、逢坂の関です」とありましたので、詠みました』とあります。「函谷関の故事」とは孟嘗君(中国の戦国時代の斉国の政治家で戦国四君の一人)が秦に招かれ、その地で殺されそうになった時に食客の中の鶏鳴の真似の名人を使って関門を開けさせ、まんまと秦から脱出したという鶏鳴狗盗鶏鳴のお話です。なお、狗盗の話は秦の昭襄王の蔵から孟嘗君の食客の中の泥棒の名人が狐白裘を盗んできて、これを寵姫に渡し、その取り成しによって孟嘗君の滞在していた屋敷への秦軍の包囲は解かれ、孟嘗君はひとまず危機を逃れたとの話で二つの話が一緒になって「鶏鳴狗盗」です。「逢坂の関」とは山城・近江国境の峠道にあった関所で畿内の北限。東国へと通じる重要な交通の要衝です。「逢ふ(情事を遂げる)」を掛けています。

百人一首では、この歌の第2句は「そらねに」→「そらねは」となっています。

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2008年12月11日 (木)

唐沢山神社の紅葉1

11月30日に栃木県佐野市の唐沢山(からさわやま)神社へ行って来ました。唐沢山神社は山頂の神社に平将門を攻め滅ぼした藤原秀郷(別名は俵藤太と呼ばれていました)を祭ってあります。下野国押領使として唐沢山に築城しました。その後、天慶の乱(平将門の起こした大乱)の時に伊勢平氏の祖で平清盛の祖先の平貞盛(平国香の子で、国香は常陸平氏の祖で桓武平氏の本流です。関東各地に土着した国香の弟の平良文から派生した坂東八平氏とは同族関係ではありますが別系統)と協力して平将門を打ち取りました。その後、武蔵・下野の国守となり、鎮守府将軍となりました。これが北関東の藤原氏の秀郷流の豪族の原点です。その後、唐沢山城は俵(田原)藤太の子孫である佐野氏の居城となりました。俵藤太で有名な伝説は大ムカデ退治です。弓矢の名手である秀郷が、琵琶湖の南、瀬田橋を渡ろうとしたところ、橋の上に横たわった大蛇を、臆することなく跨いで通った。その豪胆に、大蛇に化身していた龍神に見込まれ、三上山の大ムカデ退治を懇願される。戦闘の末、唾をつけた矢を打ち込んで見事に大ムカデを退治したとのお話です。

唐沢山神社は紅葉が綺麗な事で有名ですがあまりメジャーになっていないのでお勧めです。観光バスが押し掛けてくるとここもダメになるでしょうが、今のところは大丈夫です。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mmF2.8とトキナー80-200mmF2.8です。

西行法師の家集「山家集」から。

      はらはらと

    落つる涙ぞ

      あはれなる

    たまらずものの

    悲しかるべし

(意)はらはらと落ちる木の葉の様な涙こそは哀れ深いものだ。こらえきれないほど何かが悲しいのに違いない。

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2008年12月10日 (水)

宇治 平等院

11月18日に京都市宇治へ行ってきました。宇治は中学の修学旅行以来です。最初は寺田屋です。薩摩藩の内部争いにより9名が死傷した騒乱で寺田屋騒動とも言われています。また坂本竜馬が伏見奉行所などの捕り方により襲撃されたました。最近、新たな資料から鳥羽伏見の戦いの兵火により焼失し建て直された建物だったことが証明されました。宇治は平安時代初期から貴族の別荘が多く営まれたところです。平等院の地は源氏物語のモデルの一人と言われている左大臣の源融(みなもとのとおる)の別荘地でした。その後に宇多天皇に渡り、宇多天皇の孫の源重信から藤原道長の別荘の宇治殿となりました。道長の子で関白藤原頼道が宇治殿を寺院に改装したのが平等院の始まりです。平安時代後期は「末法思想」が広く信じられていて平安貴族は競って極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀る仏堂を盛んに造営しました。源融は嵯峨天皇の第12皇子で臣籍降下して源氏となりました。陽成天皇が廃位させられた時に源融が天皇位に付く可能性があり「自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る」と会議の席で述べましたが摂政の藤原基経の「源氏に下がった後に皇位についた例はない」の一声で可能性を封じられました。

平等院は以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げた源頼政の終焉の地です。平等院の中に「扇の芝」と呼ばれる場所がありその場が源頼政が切腹した場所と言われています。源頼政は清和源氏の源満仲の長男だった源頼光の子孫です。頼光は「大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)」、「怪盗鬼童丸」「妖怪土蜘蛛」等を退治した、伝説的な英雄です。配下の四天王、「坂田金(公)時」「渡辺綱」「碓井貞光」「卜部季武」も主に劣らぬ武勇伝があります。特に坂田金時は「足柄山の金太郎」として有名です。頼光は摂津国多田荘を本拠としたため摂津源氏あるいは多田源氏とも言われています。頼政はこの家系の棟梁でした。頼政も平家物語などによると鵺退治の説話が書かれています。頼政は平清盛と常に行動を共にしてきました。平家政権下で源氏の長老として源氏の棟梁でもありました。歌詠みとしても有名で平家物語によると

  のぼるべき たよりなき身は 木の下に

    椎(四位)をひろひて 世をわたるかな

と詠ったのを聞いて平清盛は頼政が長らく正四位のままでいた事に気づき従三位に昇進させたと言われています。この時頼政は74歳。当時としては非常に長生きでした。三位以上になると公卿と言われ貴族の中で大臣クラスとなり待遇がまったく違ってきます。なお五位以上を貴族と呼びました。この頼政の従三位の昇進は当時では大事件だったようで、九条兼実の日記「玉葉」では「第一之珍事也」と記されています。それだけ平清盛にとって源頼政は重要な協力者だったのでしょう。それだけに平清盛は源頼政の反乱を最初は信じなかったようです。

平家物語に頼政の切腹の前に詠った辞世の歌が載っています。

  埋れ木の 花さく事も なかりしに

    身のなる果ぞ 悲しかりける

(意)埋れ木のような我が身は、花の咲くことなどあるはずがなかったのに、あえて行動を起こし、このような結果になってしまったことが悲しい。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は源満仲の三男の源頼信を祖とし河内国石川郡壷井荘を本拠とする河内源氏です。河内源氏の頼信は長元の乱(上総・下総・安房の三か国で起きた反乱)と呼ばれる平常忠の起こした反乱を追討使として鎮圧し東国の武士団との間で強い絆が生まれました。これにより河内源氏である源義家の奥州征伐から源頼朝の挙兵まで東国武士団と河内源氏との関係がなお一層強まったのでしょう。 

宇治上神社は現存する日本で一番古い神社の本殿だそうです。宇治上神社と宇治神社の二社と平等院は昔はセットだったようで平等院の鎮守社でした。宇治上神社は上社、宇治神社は下社とも呼ばれていたようです。

カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

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2008年12月 9日 (火)

武蔵丘陵森林公園の秋1

11月29日に埼玉県滑川町の武蔵丘陵森林公園へ行って来ました。正式名称は「国営武蔵丘陵森林公園」です。一般的には「森林公園」と呼ばれています。1974年に日本で最初の国営公園として開園しました。滑川町と一部が熊谷市にまたがっています。開園当初は何もないただ広くて森と林と広場があるだけの公園でしたが、今や季節季節に花等が絶えない美しい公園となりました。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

西行法師の歌を家集の山家集から。

      なにとかく

    心をさへは

      尽くすらむ

    我がなげきにて

    暮るる秋かは

(意)どうしてこのように様々に物思いをさせる秋なのだろうか。私の嘆きで暮れる秋なのか。私がいくら嘆こうが、それと係わりなく暮れてしまう秋ではないか。

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2008年12月 8日 (月)

六義園(りくぎえん)のライトアップ2

11月28日の文京区の六義園のライトアップです。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ50mmF1.4です。ソニーα900の画像とはかなり違います。

いま永田町で流行っている麻生総理大臣の心境を詠った替え歌をユーミンとジュリーの歌から。

★麻生版・あの日にかえりたい(ユーミン)

泣きながら ちぎった詔書を
手のひらに つなげてみるの
根拠なき あの日の自信
わけもなく 憎らしいのよ
あのときの 高支持率を
人はみな 忘れてしまう
あの頃の私に戻って
「解散」と言いたい~

★麻生版・時の過ぎゆくままに(ジュリー)

あなたはすっかり 疲れてしまい
解散さえも イヤだと泣いた
壊れたマイクで いつもの演説
繰り返しては ため息ついた
時の過ぎ行くままに この身をまかせ
紫の袱紗(ふくさ)が 漂いながら
もしも袱紗が 出てくるならば
議場の景色も 変わっていくだろう

古今集から小野篁(たかむら)の歌。

      しかりとて

    背かれなくに

      事しあれば

    まづ嘆かれぬ

    あな憂(う)世の中

(意)だからと言ってこの世に背を向けることもできないのに。なにか事が起こると、まずはともあれ歎いてしまうことだ、ああ辛い世の中よ。

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2008年12月 7日 (日)

三井寺(みいでら)の紅葉

11月17日の滋賀県大津市の三井寺です。三井寺は、正式には「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」と言います。近江朝の天智天皇(中大兄皇子)の子供だった大友皇子(弘文天皇)と叔父の大海人皇子(天武天皇)との間で起きた古代史上最大の騒乱だった壬申の乱で大友皇子が敗れ自決し反乱軍の大海人皇子が勝利しました。この寺院は大友皇子の皇子である大友与多皇子が自分の所有していた園城の地を寄進して寺院を創建し天武天皇(大海人皇子)から「園城」の勅額を賜わったことから園城寺が始まったと言われています。壬申の乱後に都は近江大津京から飛鳥に遷都されました。

天智天皇の歌を後撰集から。百人一首の歌でもあります。

      秋の田の

    かりほの庵(いほ)の

      苫をあらみ

    我が衣手は

    露にぬれつつ

(意)秋、稲を刈り取る季節に田のわきの仮小屋に宿っていると、屋根の苫は目が粗いから、私の袖が落ちて来る露に濡れとおしだよ。

天智天皇は中大兄皇子です。壬申の乱で死んだ大友皇子(弘文天皇)の父親でした。壬申の乱で天智天皇系の天皇は途絶え、しばらくの間は天武天皇(大海人皇子)系になりました。しかし、天智天皇系の志貴皇子の子である白壁王が光仁天皇として即位し天智天皇系が復活し、その子桓武天皇が平安京を開くに至りました。以後も皇位は天智天皇の系譜が引き継がれることとなりました。天智天皇系に戻ってきたのには訳があります。天武天皇系の女帝だった孝謙天皇(称徳天皇として重祚・・再び皇位に着く事)が皇位継承者を殺し尽くしたため称徳天皇が死んだ後に有力な皇位継承者がいない事態が発生したため遠い皇族だったために命を長らえた白壁王が光仁天皇として即位しました。それ以降、天皇位は途中何度も系統は途絶え、遠くの親戚が皇位を継いでいますが原則的に天智天皇系です。現在の天皇は119代・光格天皇の系統に連なるのですが、そもそもこの光格天皇が、傍系中の「傍系」でした。皇室本流である118代・後桃園天皇に男子がなく、系統が断絶したとき、後継者に閑院宮家の第6皇子を天皇として連れて来ました。その皇子がのちの「光格天皇」でした。彼は「閑院宮家」を継承することもできず仏門に入るはずでした。他の兄たちは出家して門跡寺院に送られていましたので、まだ9歳で仏門に入る前だったので白羽の矢がたち天皇となる事が出来ました。光格天皇は明治天皇の曾祖父です。現天皇は125代目です。光格天皇は途絶えていた宮廷の儀式などの復興に熱心に取り組み、江戸幕府に対して天明の大飢饉のときには領民救済の意見書を出し幕府に認めさせたり、ロシアとの北方領土の紛争について交渉経過を報告させるなど朝廷権威の復活に努めました。光格天皇がいなければ明治維新は起きなかったと現在は評価されています。なお、天皇号は第63代の「冷泉院」から光格天皇の先代の「後桃園院」まで「院」をつけるのが通常でありの天皇の呼び方の復活は光格天皇からで、57代約900年ぶりのことでした。天皇と呼ばれなくなった時代は通常「主上」「禁裏」などと称していました。現在は全員を天皇と尊称を付けています。

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2008年12月 6日 (土)

平林寺の紅葉2

11月26日埼玉県新座市の野火止にある平林寺です。ここは野火止用水が境内を流れていました。現在は用水の跡だけが残っています。最近、野火止用水を通水する試みが行われているようです。私の卒業した高校の敷地の中にも野火止用水が流れていました。入学の頃は綺麗な水が小川の流れのように流れていて学校の周りは畑と雑木林でした。しかし、高校1年の夏休みが終わって学校へ行くとあたりの様子は一変し、消防車が入れないような細い道に沿って建売住宅が密集していて野火止用水も白濁して汚水の流れになっていました。

続古今集から慈円の歌。

      夕まぐれ

    鴫たつ沢の

      忘れ水

    思ひ出づとも

    袖はぬれなむ

(意)ぼんやりと暗い夕方、鴫(しぎ)が飛び立つ沢の、誰からも忘れられてしまったようなひそかな水の流れ。その流れのように、あの人と私の仲も絶え絶えになってしまい、今更思い出したところで、また袖を濡らすだけだろう。

「忘れ水」とは人から忘れられたように野原を絶え絶えに流れる水。恋人の訪問が途絶えがちになり、忘れられかけた境遇を暗喩しています。

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平林寺境内の一部が新座市に貸し出され「睡足軒の森」として運営されています。もともとここの周辺の大和田・野火止・菅沢・北野・西堀の五か村を一時期支配していた高崎藩の飛び地としてここに陣屋が置かれていました。近代になり「日本電力の王」の異名を持ち、実業界で活躍する一方で、茶道にも造詣の深かった昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)が土地を購入し、屋敷地としました。後に松永氏の菩提寺であった平林寺へ寄贈されました。戦後の日本を吉田茂とともに築いた白州次郎は松永安左エ門を信用できない人物として見ていました。私の高校は松永安左エ門が慶応義塾に寄付をした志木駅前の5万5千坪もの土地の中にありました。現在は大多数の土地を売却し、大学の校舎などに化けています。慶応にとっては松永安左エ門は大旦那と言うことです。昔はスケールの大きな実業家がいました。

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2008年12月 5日 (金)

石山寺の紅葉1

11月17日の滋賀県大津市の石山寺です。石山寺は琵琶湖から唯一流れ出ている川、瀬田川の右岸にあります。本堂は巨大な硅灰石(石山寺硅灰石)の上に建っています。聖武天皇の発願により良弁僧正が開基した寺院です。東大寺大仏造立の黄金不足を愁いた聖武天皇は伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け東大寺開山別当であった良弁僧正に命じたと言われています。石山寺の造営は国家的事業として行われ、造石山寺所と言う役所も作られ、造東大寺司(東大寺を作る役所)からも人員が派遣されてきたようです。

源氏物語の千年紀だそうで、滋賀・京都は源氏物語で賑わっています。紫式部はこの石山寺に参籠していたときに源氏物語の構想を考えたと言われています。「枕草子」の清少納言、「和泉式部日記」の和泉式部、「蜻蛉日記」の藤原道綱の母、「更級日記」の菅原孝標の女なども石山寺に参籠したことを日記や随筆に記しています。石山寺に参籠する事が当時の上流階級の流行だったのでしょう。

新古今集から紫式部の歌。百人一首の歌でもあります。

      めぐりあひて

    見しやそれとも

      わかぬまに

    雲がくれにし

    夜半(よは)の月かげ

(意)久々に再会して、面差しをはっきり見分けることもできないうちに、慌ただしく帰ってしまった幼馴染の友。あたかも、ほのかに見えた月がたちまち雲に隠れるように。

詞記に「はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、七月十日の比、月にきほひてかへり侍りければ」とあります。この詞記がなければ恋人への恨み事のように思えますね。幼馴染の昔の恋人かもしれません。

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2008年12月 4日 (木)

伊豆 修善寺の紅葉

11月22日の修善寺です。修善寺は明治41年に岡本綺堂が修善寺を訪れた際に源頼家の能面と言われるお面を見て書いた「修禅寺物語」と言う戯曲で有名です。この町の名前は修善寺ですがお寺は修禅寺と書くのが本当だと言われています。修善寺は源頼朝の弟で義経の兄であった源範頼と頼朝の長男だった2代将軍源頼家が幽閉されて殺された土地です。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

源範頼は頼朝の異母弟で義経の異母兄でした。蒲冠者(かばのかんじゃ)、蒲殿(かばどの)等と呼ばれていていました。甲斐源氏の武田氏や小山を拠点とする小山氏などと関係が深かったようで、木曽義仲攻めや平家を攻めた時にはこの二大氏族が範頼軍の中格だったようです。頼朝の代理人として全軍を率いて木曽義仲を攻めるために都へ攻め上り、その後平家を壇ノ浦まで追い詰めた総大将でした。常に大軍を率いていました。戦上手で有名な弟の義経は遊軍として先行して働きました。大軍を率いて九州まで遠征するのは大将軍としての能力がなければ出来ません。ましてや礼儀も知らない乱暴者の多かった東国武士達を率いて戦をする能力は素晴らしいものがあったのだと思います。歴史的にはあまり能力が無いと言われていましたが、私は範頼は十分に大将軍としての資質があったと思いますが、歴史的な資料がほとんど残されていないために不当に低い評価をされていると思います。この辺りが北条氏にとって危険視され邪魔になり、義経が平泉で殺された後で謀反の疑いをかけられて修禅寺に幽閉され殺されたのでしょう。一方、2代将軍源頼家は北条氏を攻め滅ぼそうとしましたが、事前に計画が漏れたため修禅寺に幽閉されて殺されました。また3代将軍の実朝の暗殺も明らかに黒幕は北条氏です。北条政子はすべてを知っていて北条氏の利益のために自分の子供達が殺されるのを黙認したのだと思います。当時は自分の一族の利益を守ることこそがすべてで、負ければ一族族滅に遭いました。

源範頼は平家全盛時代に埼玉県の北本市に一時隠れ住んでいたとも言われています。また鎌倉幕府成立後は埼玉県吉見町と北本市あたりを中心に領地をもっていたようです。北本市の日本三大桜の一つであった蒲桜は範頼の屋敷に咲いていた桜だと言われています。現在でも範頼の子孫と言い伝えられている方が桜のそばに住んでいらっしゃるそうです。幕末までは桜の巨木として有名で江戸から桜見物に風流人達が訪れていました。現在は木が非常に小さくなってしまい面影がありません。

鎌倉幕府第3代将軍源実朝の家集「金槐和歌集」から。

  いとほしや 見るに涙も とどまらず

    親もなき子の 母をたづぬる

(意)いたわしいことよ。見ていると涙も止まらない。親もない子が母を求めて泣くさまは。

  物いはぬ 四方(よも)のけだもの すらだにも

    あはれなるかなや 親の子を思ふ

(意)物言わぬ、どこにもいる獣でさえも、いとしいことよ、親が子を思うさまは。

この2首の歌は頼家と実朝の兄弟が母を求めて詠った歌のように私には思えます。二人は寂しかったのでしょうね。実の母達に殺された兄を偲び、そしていずれ殺されていく自分を知っていたのでしょうね。二人とも寂しかったのでしょう。悲しい歌だと思います。鎌倉時代の日本は暗かったでしょうね。それだけに救いを求めるために真言宗・天台宗から新しい宗教が次々と生まれたのでしょう。

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2008年12月 3日 (水)

六義園(りくぎえん)のライトアップ1

11月28日の文京区の六義園の紅葉のライトアップです。なかなか綺麗でした。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mmです。三脚は無しです。ISOは800から6400です。SilkyPixでノイズを取りました。レンズはF2.8ですので三脚無しでは少々きつかったですが、やはりフルサイズのデジカメとVario-Sonnarの組み合わせは凄いです。ペンタックスK20Dとペンタックス50mmF1.4でも撮っていますが、やはりこの条件での写りの差は歴然でした。ペンタックスの画像は近々アップします。この日は昼近くまで大雨でしたので足場が悪く暗闇の中で足元が少々不安でした。午後から晴れて来て星も綺麗に出ていました。写真に写っている星は木星と金星だと思います。三脚無しでもこれだけ撮れるのですね!紅葉には少し早かったようで、例年並みの紅葉の進み方ではないかと思います。

   かしこしな 君かめくみを みかさ山

     申すゑも移る 紫の袖

   むらさきの 袖をうつして 石清水

     神と君との めくみをそ見る

   こすえにも 君の恵の あらはれて

     松よりすたつ 千世の雛鶴

この和歌は柳沢吉保が嫡男の吉里が侍従に任官したことを喜んで詠った和歌です。「三首和歌」と呼ばれ、お目出度い席で詠われる歌で、3・5・7首の三通りがあったようです。第一首は自分達親子をここまで引き上げてくれた将軍徳川綱吉への感謝を、第二首目で甲斐源氏の出として源氏の氏神の石清水八幡宮と綱吉への感謝の思いを、最後に綱吉の徳の高さを詠いました。

六義園は川越藩主であった柳沢吉保が築園した大名庭園です。柳沢吉保は和歌の世界を庭園で表そうとしたそうです。明治時代になり三菱財閥の岩崎弥太郎の所有となり昭和13年に東京市に寄贈されました。昔は六義園(りくぎえん)とも六義園(むくさのその)とも呼ばれていました。「むくさ」の語源は紀貫之の書いた古今集の仮名序の「そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき」から来ているようです。新古今集の真名序にも「六義若相兼」とあります。六義とは中国の「詩経」では「風・賦・比・興・雅・頌」の六つです。それを和歌に直して「そへ歌」「かぞへ歌」「なずらへ歌」「たとへ歌」「ただこと歌」「いはひ歌」と言われています。

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2008年12月 2日 (火)

古知谷阿弥陀寺の紅葉

11月17日の寂光院の後で比叡山への途中で古知谷の阿弥陀寺へ行ってきました。かなり険しい山道ですが車で一気に登りました。古知谷にはカエデが多く,紅葉の名所の一つだそうです。なかでもここのカエデの木は,幹に多数の支根がからみつく異様な形状をしていて、樹高19.2m、胸高幹周3.70mもあり古知谷でも最大で最古のカエデだそうです。慶長14年(1609)の阿弥陀寺の創建時にはすでに大木であったと伝えられていて、白蛇が棲んでいるとの伝承もあるそうです。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mmです。

風雅集から後伏見院と永福門院の贈答歌です。

  秋をまたで 思ひたちにし 苔衣

    今よりつゆを いかでほさまし   後伏見院

(意)秋(自分の意志で出家する時期)を待たないで思い立って着てしまった出家者の粗末な衣に、これから秋の露(涙)をどのようにして乾かしたらいいのでしょうか。

  思ひやる 苔のころもの 露かけて

    もとの涙の 袖やくちなむ   永福門院

(意)さぞかし濡れておいででしょうと思っています。貴方の衣に置く露が、私の袖にまでかかるような気がして、もともと涙もろい私の袖はますます濡れて朽ちてしまうでしょう。

元弘3年(1333)五月の後醍醐天皇の京都回復の時に、後伏見院・花園院・光厳天皇は敗走する六波羅探題北方の北条仲時ら六波羅の軍勢とともに東国に向かって逃れましたが、近江国番場で後醍醐天皇方の軍勢に追いつかれて捕らえられました。北条仲時ら六波羅軍の生き残りは番場宿で腹を切って果てました。北条仲時に従っって腹を切った北条方の武士は432人と言われています。都から落ちる時は2千騎と言われていますが途中で野伏に襲われ六波羅探題南方の北条時益は流れ矢にあたり戦死します。また光厳天皇にも流れ矢が当たり腕に軽い怪我を負いました。番場から都へ返された光厳天皇は廃され、後伏見院は出家させられました。永福門院は伏見天皇の中宮でしたが子供に恵まれず伏見天皇と典侍藤原経子の間に生まれた子供を養子として手元に引き取り養育しました。この子供が後の後伏見院です。この歌は後伏見院が都に連れ戻されて出家した直後に贈答された歌です。

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2008年12月 1日 (月)

彦根城

11月16日に彦根から京都へ向かう前に彦根城に行ってきました。彦根は大学時代に一度行っただけです。彦根は江戸時代初めから歴代井伊氏の居城で、井伊氏は譜代大名筆頭の家柄で江戸期を通じて大老職には5代6度なっています。カメラはペンタックスK20Dとペンタックスレンズ18-55mm&55-300mmです。

皇女和宮の歌を家集「静寛院宮御詠草」から。

      うつせみの

    唐織衣(からおりごろも)

      なにかせむ

    綾も錦も

    君ありてこそ

(意)おみやげに所望した西陣織の衣も、いったいなんの役に立つでしょうか。綾や錦の美しい織模様も、あなたが生きておられればこそのものでしたのに。

皇女和宮は仁孝天皇の第八皇女で有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約中でしたが江戸幕府大老井伊直弼を中心とした幕府により公武合体の保証として将軍家茂への皇女降嫁が画策されました。大老井伊直弼は桜田門外の変で殺されましたが、幕府は和宮降嫁を続けて強く要請したため朝廷も和宮の関東降嫁を認めました。夫婦仲は良かったようですが、将軍家茂は長州征伐のため大阪城に在陣中に亡くなってしまいました。この歌は家茂から和宮への御土産として西陣織の衣が家茂の遺体とともに江戸へ帰ってきた時の歌です。「唐(から)」は「から(骸)」です。和宮は髪を下ろした後は静寛院宮と呼ばれました。昔の婚約者だった有栖川宮熾仁(たるひと)親王は東征大総督として参謀西郷隆盛の補佐によって官軍の総大将として江戸攻めを行いました。昔の婚約者であった和宮を攻める事になったのですね。しかし、勝海舟と西郷隆盛の平和的な話し合いの結果から江戸城は無血開城する事になりました。この時は和宮の影の働きが大きかったと言われています。ほんの少しNHK大河ドラマとは違っているようです。有栖川宮熾仁親王は幕末から積極的に倒幕活動に関係していて特に長州藩のスポンサー的な活動していました。王政復古のクーデターも西郷隆盛から事前に知らされていたようです。西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督として、日清戦争の開戦時は陸海軍の総司令官となりました。なお、有栖川宮熾仁親王は婚約時代前から和宮の歌道の指南役で先生でした。

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