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2008年5月

2008年5月31日 (土)

武蔵丘陵森林公園 ルピナス

関東は今朝は冷たい雨が降っています。梅雨に入ったようによく降りますね。最近は昔のような梅雨の雨の降り方ではありませんね。男性的と言うか、嵐のような降り方ですね。昔の様な小ぬか雨が懐かしいです。

5月21日に埼玉県滑川町の国営「武蔵丘陵森林公園」へ行ってきました。6万株のルピナスが咲き出していました。晴天の中でルピナスは森の間に咲いていて、木立の影がルピナスの花にかかり明暗の対比が強すぎてデジカメには不得意な状態でした。昨年は薄曇でしたので光が良く回って綺麗に撮れたのですが、今年は残念ながら天気が良すぎました。車は中央口の駐車場が便利です。とにかく広大な面積を誇る公園ですので入場口を間違えると大変な事になります。ポピーも咲いているはずですが時間がなくて回れませんでした。ルピナスは6月8日まで公開されるようで8日以降はコリウスに植え替えられます。公園のHPによると現在は大分ハナガラが目立ってきて盛りは過ぎたようです。最後から2枚目はユリノキの花です。少し小ぶりですね。

この公園は一時昭和天皇の御陵の候補地の一つでした。宮内庁から内々の話があり視察名目で天皇陛下自身も様子を見にこられました。しかし森林公園はとにかく鉄道の便が悪く、当時の公園は今のように整備もほとんどされていなくて森林と野原だけの広すぎる公園でした。やはり八王子市の武蔵野陵(みささぎ)で良かったと思います。

昭和天皇の歌を三首。

 ☆ 身はいかに なるともいくさ とどめけり

     ただたふれゆく 民をおもいて

 ☆ 戦を とどめえざりし くちおしさ

     ななそぢになる 今もなほおもふ

 ☆ この年の この日にもまた 靖国の

     みやしろのことに うれひはふかし

昭和天皇に戦争責任はあったかとの問題ですが、私はあったと思います。それは政治的責任とか道義的責任の議論の前に、日本国民に対する結果責任だと思います。しかし昭和天皇がいなければ終戦とそのあとの戦後の日本は大変なことになっていたのも事実です。マッカーサー回想録によれば昭和天皇がはじめて連合軍総司令官マッカサーを訪問した時に昭和天皇は「私は国民が戦争遂行にあたり行なった全行為に対する全責任を負う者として、私自身を貴方の代表する諸国の裁定に委ねたくお訪ねした」と述べたとあります。それに対しマッカーサーは、「私は大きな感動に揺さぶれた。死を伴うほどの責任、明らかに天皇が負うべきでない責任まで引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄まで揺り動かした」と記されています。昭和天皇の1番目と2番目の歌は天皇の本心だと思います。昭和天皇は靖国神社へのA級戦犯の合祀には最後まで反対でした。最後の和歌で明らかに反対と分かるように詠っています。しかし、国民の象徴としての立場からは公な発言は一切しませんでした。ただ、昭和天皇はA級戦犯の合祀からは一度も靖国神社へは参拝しませんでした。左派であった私の父も昭和天皇を敬愛していました。昔、入江侍従長から父に電話があり「陛下がお前さんのこと元気かと侍従に聞くんだって!」「ウヘェ~!」「違うんだってば、ウナギが食いたいんだってさ。お前さんイコール鰻なんだよ。献立はずっと前から決まっているから簡単には変えられないんだ。鰻が大好きなんだけど鰻を食いたいとは言えないんだよ。我慢強い人だから嫌いなものでも黙って食べているが、俺達は好きなもの食えるから良いよな!今度ゴルフの帰りに川越で鰻を食うか寿司を食うか・・・」確か父と入江侍従長は霞ヶ関カントリーでのゴルフの帰りに川越で鰻を一緒に食べに行ったと思います。父の霞への入会の保証人の一人は入江侍従長でした。

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2008年5月30日 (金)

北鎌倉 明月院

3月26日の北鎌倉の明月院です。名月院は少し春が遅いようで、木蓮の花や蝋梅、マンサク等が綺麗でした。明月院への道の途中に馬酔木(あしび)が咲いていました。

☆藤原俊成の歌を千載集から。百人一首にも選ばれています。

      世の中よ

    道こそなけれ

      思ひ入る

    山の奥にも

    鹿ぞ鳴くなる

(意)辛いこの現世というものよ。そこから逃れる道はないのだ。深い思いをこめて世俗と交渉を断とうとして入り込んだ山の奧でも、鹿が悲しげに泣いている声を聞くと情の世界から逃げられない。

じっくりと読むと良い歌ですね!

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2008年5月29日 (木)

富士ぼたん園2

5月11日の栃木県大田原市湯津上(旧湯津上町)の富士ぼたん園です。旧湯津上町は那須氏発祥の地と言われていて那須の国造(くにのみやつこ)の居た土地です。湯津上町は歴史の町です。国宝の那須国造碑と古墳群それと法輪寺の西行桜が有名です。この桜は枝垂れ桜で西行法師が保延年間(1130年代)に奥州へ旅した時に法輪寺に立ち寄り、法輪寺境内の枝垂れ桜を詠ったと伝えられています。

西行法師のこの時の歌を。

      盛りには

    などか若葉は

      今とても

    心ひかるる

    糸桜かな

(意)盛りは過ぎているが若葉が綺麗で、なんとなく心を魅かれる糸桜だ。

糸桜とは枝垂れ桜の別称です。主にエドヒガンの枝垂れ桜を指す事が多いようです。樹齢は約800年と言われています。西行が詠った桜が枯れて根から新しい桜の芽が出てきたものと言われています。法輪寺の境内には他に10本ほどの桜や枝垂れ桜等の古木があります。私は以前に葉桜の時に行った事がありましたが葉桜でも綺麗でした。法輪寺は日本で一番大きな木製の天狗の面があるのでも有名です。法輪寺の開基は慈覚大師円仁です。慈覚大師は栃木県壬生町の出で比叡山の最澄の弟子となり最後の遣唐使として何度かの破船を乗り越えて唐にわたり、9年6カ月にわたり唐に滞在しました。この間の日本最古の旅行記を「入唐求法巡礼行記」として書き著しました。この書物は当時の唐の政治経済や庶民の生活等を知る上で貴重な資料となっています。故ライシャワー元駐日大使の研究で世界的に注目を浴びた本です。北関東の古刹は慈覚大師が関係している寺院が多いです。

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2008年5月28日 (水)

京都 泉涌寺と方広寺鐘楼と豊国神社

4月12日の京都「泉涌寺(せんにゅうじ)」と豊国稲荷神社です。泉涌寺は皇室ゆかりの寺院として仁和寺・大覚寺と並んで有名です。後堀河・四条天皇をはじめ後水尾天皇から幕末の孝明天皇までの天皇の御陵が泉涌寺内にあります。皇室の香華院となり御寺(みてら)と尊称されています。

方広寺の鐘楼は鐘に刻まれた「国」「君臣豊楽」の銘が徳川家康の名前を分断していると言いがかりを付けて大阪冬の陣の発端となった鐘楼です。隣の豊国神社は豊臣秀吉を祭る神社として方広寺の鎮守社として秀吉の廟所が建立されたのに始まります。後陽性天皇から正一位と豊国大明神の称号を与えられました。しかし、豊臣家が滅んだあとは徳川家に気を使い神社に手を入れることはできず荒廃してしまいました。明治になり明治天皇が大阪に行幸したときに、豊臣秀吉は日本を統一したのに幕府を作らなかった尊皇の功臣であるとして豊国神社の再興を公布し再建しました。

ここで嵯峨天皇の皇女で初代の賀茂斎王だった夕智子(うちし)内親王の「春日山荘(しゅんじつさんそう)」と題する漢詩を。

 寂寂幽荘山樹裏 せきせきたるゆうそう さんじゅのうち

 仙興一降一池塘 せんよひとたびくだるいちちとう

 棲林孤鳥識春沢 はやしにすむこちょう しゅんたくをしり

 隠潤寒花見日光 たににかくるるかんか にっこうをみる

 泉声近報初雷響 せんせいちかくほうじて しょらいひびき

 山色高晴暮雨行 さんしょくたかくはれて ぼうつらなる

 従此更知恩顧渥 これよりさらにしる おんこのあつきを

 生涯何以答穹蒼 しょうがいなにをもってか そうきゅうにこたえん

(意)

寂し奥深い山荘は山の木々の間にあります。

そこへ御門が行幸になり、ひとたび池のほとりにご降臨あそばすと、

森の中に棲むはぐれ鳥は春の恵みを知り、

谷間に隠れて咲く日陰の花も日の光を仰ぐようになりました。

泉のせせらぎは近くに聞こえ、春雷が轟き、

山の景色は高く晴れ渡り、夕立が麓のあたりに降っています。

この時から、今まで以上に帝のご恩の厚い事を知りました。

生涯かけてどのようにして、青空のような帝のご恩にむくいましょうか。

この漢詩は823年嵯峨天皇が有智子内親王の賀茂斎院での花の宴に行幸された時に有智子内親王が詠まれた漢詩です。嵯峨天皇はこの詩を聞いて賞賛し三品の位を贈りました。この時の内親王の年は17歳でした。凄い教養ですね!ここのところの経緯については「続日本後記」に記されているそうです。有智子内親王の墓は京都嵯峨野の落柿舎のすぐ西隣にあり、そこは彼女の春日山荘の跡だと言われています。

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方広寺の鐘楼と豊国神社。

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2008年5月27日 (火)

花之絵の郷の初夏1

5月17日に栃木県都賀町の「花之絵の郷」へ行って来ました。初夏には少し早すぎるかも知れませんが、春の気配も終わりかけていました。エビネランは終末期に差し掛かっていて前回行った時よりも花の数は大幅に増えていましたが、花が少々汚くなってきていました。花之絵の郷に到着した時は薄曇りでデジカメ日和だと思っていたのですが、カメラを取り出してエビネランを撮り始めると遠くで雷鳴が・・・・!だんだん近づいてきて空は一転黒い雲に覆われ周りでピカピカ光り出したので入口に緊急避難しました。そして大雨!雨に強いE-3でもとても撮影は出来ません。突然の大雨に従業員の方たちが園内にいる人達に傘を持って行くので大騒ぎでした。さすがに親切ですね!やがて通り雨が上がり撮影に再びかかりました。雨のあとの花と緑は綺麗です!

欧陽脩(おうようしゅう)の漢詩を。

 豊楽亭遊春(ほうらくていにはるをあそぶ)

 紅樹青山日欲斜 こうじゅ せいざん ひ ななめならんと ほっす
 長郊草色緑無涯 ちょうこうの そうしょく みどり はてなし
 遊人不管春将老 ゆうじんは かんせず はる まさに おいんとす
 来往亭前踏落花 ていぜんに らいおうして らっかをふむ

(意)赤い花をつけた樹木と青々とした山。太陽が傾きかけようとしている。広い野原の草の緑がはてしなく続いている。行楽する人は過ぎ去ろうとする春を気にせず、豊楽亭の前を行ったりきたりして、散り敷く花びらを踏んでいる。

欧陽脩は北宋の官僚で詩人で歴史家でした。比較的貧しい家で生まれたと言われ、独学で進士に及第し高級官僚の道を歩みましたが、生涯で何度もの左遷と復権を繰り返しました。彼が蘇軾(そしょく)別名「蘇東坡(そとうば)」を見出したと言われています。蘇東坡は北宋第一の詩人と言われています。欧陽脩は、1045年(慶暦5年)滁州の知事に左遷されました。その時に滁州の紫薇泉の畔に「豊楽亭」を別邸としてつくりました。

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P.S. 昨日も都内へ出たのですが山手線が人身事故で1時間近く止まっていて、影響で京浜東北線も止まってしまいました。幸い、列車で浦和駅から上野駅まで出たので、上野から地下鉄を乗り継いで目的地まで少し遅れましたが無事着けました。列車を使わなかったら電車の中に閉じ込められていたかも知れません。一時電車への飛び込み自殺は少し下火になっていたのですが、五月の連休以降再び頻発です。一度私も経験しましたが人身事故で30分ほど止まり、やっと復旧したと思ったら再び同じ路線の別な駅で人身事故で止まった経験がありました。1週間に1,2回は都心に出ていますが最近はどこかで必ずと言っていいほど鉄道自殺に影響されます。ここまでくると東京の名物とも言えないですね。日本が壊れていく過程なのでしょうか!これからますます不安な時代に入って来ますので自殺をする人は物凄く増えてくると思います。何とかならないのでしょうか!人に迷惑だけはかけないでもらいたいと思います。

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2008年5月26日 (月)

新宿御苑の桜4

4月4日の新宿御苑です。やはり新宿御苑の桜は他の花や緑との組み合わせが素晴らしいですね!

新古今集から大江千里の歌。

      照りもせず

    曇りもはてぬ

      春の夜の

    おぼろ月夜

    しく物ぞなき

(意)くっきりと輝くこともなく、かと言ってすっかり雲に覆われてしまうわけでもない春の夜の朧月夜に及ぶ月夜なぞありはしない。

この歌は源氏物語の「花宴の巻」で朧月夜の君はこの歌を口ずさみ、これを聞いた光源氏は朧月夜の君の袖をつかんで・・・。二人は禁断の愛に沈んだのでした!それほど当時は有名な歌だったのでしょうね!

この大江千里の歌は唐の詩人[白楽天]の漢詩(白氏文集)の「嘉陵夜有懐二首」の二首目を翻訳して和歌にしたものです。白氏文集は平安時代初期に唐から輸入され当時の日本の貴族の教養の基礎的なものでした。遣唐使達は日本への帰国の時に唐の朝廷から贈られた品々を長安の都で売却して、代わりに色々な本や芸術品を購入していたそうで、当時の唐の官僚の日記にその事を批判的に書いてあるそうです。その中に白氏文集など色々な漢詩の本があったのだと思います。それが日本では大切に扱われ現在に残っているのです。中国本土では戦乱などで失われた漢詩集も多いようで日本に残っている漢詩集で欠損部分を補う研究が行われているそうです。平安時代は公式文書は漢文で書かれていましたので、漢文の読み書きが出来ないと仕事になりませんでした。平仮名は世界に誇る日本独自の文字ですが、主に女性の間で、あるいは私的な文書で使われました。

白楽天  嘉陵夜有懐

不明不闇朧朧月  照りもせず、くもりもせず、ろうろうたる月。

不暖不寒慢慢風  暖にあらず、寒にあらず、まんまんたる風。

独臥空牀好天気  独りむなしき、床にふすに、よき天気なり。

平明閑事到心中  平明(夜明け)の、しずかなりし事、心の中に到れり。

さて、白楽天の詩も大江千里の翻訳した和歌も両方とも素晴らしいと思います。大江千里は白楽天の詩を和歌に直した歌が多いです。

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