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2008年4月

2008年4月30日 (水)

さいたま市 総持院の牡丹1

4月27日にさいたま市緑区南部領辻の総持院の牡丹を撮りに行ってきました。ここの牡丹は綺麗です。隠れた牡丹の名所です。牡丹は8分咲きでした。総持院の後に、栃木県都賀町の「花之江の郷」へエビネランを撮りに行って来ました。咲き始めでしたが綺麗でした。今週末頃は山の斜面一面のエビネランの競演を見ることが出来ると思います。

新古今集から式子内親王の歌。百人一首の歌でもあります。

      玉の緒よ

    絶えなば絶えね

      ながらへば

    忍ぶることの

    よわりもぞする

(意)私の玉の緒よ、切れてしまうなら切れてしまえ。もし持続すれば、堪え忍ぶ力が弱ってしまうのだ。

玉の緒とは心と身体を結び付けていると思われている緒のことです。この歌は本来の式子内親王の家集にはない歌です。後に補遺の部に入って来ました。事情などは不明です。詞書には「忍恋」とあります。しかし、強烈な歌ですね!

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2008年4月29日 (火)

京都の桜10

4月11日の京都の桜です。

平兼盛の歌を続古今集から。

      山桜

    あくまで色を

      見つるかな

    花ちるべくも

    風ふかぬよに

(意)山桜の美しさを心ゆくまで堪能しました。花が散りそうには見えない、風のない穏やかな世にあって。

南禅寺とその周辺です。

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半木の道

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嵐山

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P.S.  今朝からしばらくの間、小旅行に行ってきます。ブログは予定稿で毎日更新されます。コメントへの返事は帰ってからさせて頂きます。

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2008年4月28日 (月)

京都の桜6 仁和寺2

4月12日の仁和寺の続きです。今回は仁和寺の御所の中です。仁和寺も京都の他の寺院と同じように応仁の乱で焼け落ちてしまいました。その後160年ほどは再建もできずにいましたが、江戸時代寛永11年(1634年)に、徳川幕府の援助により覚深法(かくじんほつ)親王が再興に努め、現在の仁和寺の基礎を築いたとされています。御殿の中は撮影禁止だったのでしょうか?撮影禁止の紙などが見えなかったので、そっと撮ってしまいました。

新勅撰集から光孝天皇の歌。

      山桜

    たちのみかくす

      春霞

    いつしかはれて

    見るよしもがな

(意)立ちこめて山桜を隠してばかりいる春の霞よ、いつか晴れて花を眺めたいものだ。

詞書によると親王の時代に詠われた歌のようです。光孝天皇は「仁和の帝(みかど)」あるいは「小松の帝」と呼ばれていました。仁和寺の建設途中で亡くなり、息子の宇多天皇により完成されました。この歌は女性に詠いかけた歌ですが、どこの誰かは伝わっていません。光孝天皇の在位は短かったのですが、治世は太政大臣藤原基経に任せ、もっぱら和歌や音楽等の文芸活動を行っていたようです。また、料理が得意で自分で料理を作る時もあったようです。長い不遇の時代を経験して、思いがけずに天皇に即位しました。藤原基経がいなければ天皇に即位は出来ず、天皇は源氏物語の光源氏のモデルと言われていた源融(みなもとのとおる)が即位していたかも知れません。

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仁和寺の隣にある蓮華寺です。

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2008年4月27日 (日)

京都の桜9 二条城1

4月12日の二条城です。ここの桜は綺麗です。特に枝垂れ桜は見事です。

二条城は昔からいくつも存在していました。現在の二条城は徳川家康が関ヶ原に勝利して後に、京都へ上洛する時の宿泊施設と京都御所の守護を目的として造営しました。のちに3代将軍家光が敷地を拡張して現在に至ります。室町時代には二条大路に面していた室町将軍の屋敷を二条城と呼んでいましたが、二条大路に面していなくても二条城とも呼んでいたようです。二条城は左京にありましたが、右京にも西院城が存在していた時があったようです。織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された時に、嫡男の信忠は妙覚寺に泊まっていましたが、事変が起きたことを知り二条城に立て籠もり明智勢を迎え撃ちましたが全滅しました。豊臣秀吉も京都に天守閣のある二条第を作り、聚楽第が出来るまで京都での住居としました。場所はそれぞれ違っているようです。現在の二条城は徳川家康に将軍宣下が下った時と、徳川慶喜が将軍を返上した大政奉還時に使われました。大政奉還の時には二条城には徳川家の旗本として最精鋭の幕府歩兵を中心に5,000名と会津兵3,000名・桑名兵1,500名が駐屯していました。慶喜は西軍との衝突を避けるために兵を率いて大阪城へ下がり、守備のために少数の水戸藩兵を残しました。これが鳥羽伏見の戦いまでの前段の始まりです。

新古今集から藤原俊成女の歌。

      恨みずや

    うき世を花の

      いとひつつ

    誘ふ風あらばと

    思ひけるをば

(意)恨まずにいられません、花がこの憂き世を厭って、誘う風があれば散ってしまおうと思っていることを。

藤原俊成女とは藤原俊成卿女とも呼ばれます。藤原俊成の娘の子供で俊成の孫です。父親の藤原盛頼が「鹿ケ谷の変」に連座して失脚したため両親が離婚して祖父の俊成に養育され、養女となりました。藤原定家は叔父ですが兄妹となりました。晩年は嵯峨に住み最後は播磨国越部に隠棲したので嵯峨禅尼とか越部禅尼と呼ばれました。文芸評論家の保田與重郎氏の『日本語録』によれば「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である」とあります。まさに的を得た評論だと思います。藤原俊成女は藤原定家とはまた違った素晴らしい歌詠みだと思います。

この歌の本歌は古今集の小野小町の歌です。

 わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて

    誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ

(侘び暮らしをしていたので、我が身を憂しと思っていたところです。浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘ってくれる人があるなら、一緒に都を出て行こうと思います) 詞書によると国司として三河国に下ることになった文屋康秀から、「私と田舎見物には行けませんか」と戯れに誘われて、その返事として贈った歌とあります。実際は一緒には行っていないと思います。康秀は小野小町と同じく六歌仙の一人です。仁明天皇に近侍したと思われる文屋康秀と小町とは旧知の間柄だったのでしょうね。諧謔味を籠めてはいますが、おかしさよりもしみじみとした情感(情愛)が在るように思えます。

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2008年4月26日 (土)

京都の桜8 嵯峨野周辺

4月12日の嵯峨野です。朝8時前にホテルを出て、最初に嵯峨野へ行ってきました。本当は仁和寺の開門まで1時間ほど時間を潰すため運転手さんが考えてくれました。朝が早かったので観光客はほとんどいませんでした。嵯峨野の竹林は素晴らしいですね!次回、京都に行く時は嵯峨野の近辺に泊まって早朝から嵯峨野を足でじっくりと歩くのが良いかなと思っています。

藤原俊成女の歌集「俊成卿女集」から。

      花をみし

    秋の嵯峨野の

      露の色も

    枯葉の霜に

    かはる月影

(意)秋の花が咲く嵯峨野で、それらの花に置いていた露も、今は枯葉の上に場所を変え、月影を受けた霜となって冴え冴えと光っている。

藤原俊成女は藤原俊成の孫娘で養女です。つまり藤原定家の姪で兄妹となります。源通具と結婚して1男1女を生みましたが、結婚生活は幸せではなかったようです。源通具が亡くなってからは嵯峨野に隠棲しました。

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2008年4月25日 (金)

浜離宮庭園1

4月22日、上野公園の次に汐留の浜離宮庭園へ行ってきました。ぼたん園の牡丹が咲き出していました。まだ蕾の牡丹が多かったので今週末にはかなり咲き出していると思います。八重桜も満開なのでしょう。色々の八重桜が咲いていて綺麗でした。遅咲きの山桜も咲いていました。

浜離宮庭園は正式名称は「東京都立浜離宮恩賜庭園」と言われます。新橋駅から歩いて10分ぐらいでしょうね。汐留のビル群を抜けていきます。汐留の高層ビルの最上階のレストラン等で夕方に窓際の席を予約すると南側に面していますが素晴らしい夕景と浜離宮庭園を見ながら食事が出来ます。日が落ちるとレインボーブリッジが見えます。

浜離宮庭園は江戸幕府開府の時は将軍家の鷹狩場でしたが、松平綱重が甲府藩主になった時に甲府藩の下屋敷となりました。綱重の息子が六代将軍徳川家宣となると将軍家の別邸となり浜御殿と呼ばれるようになりました。十五代将軍徳川慶喜が大阪から軍艦に乗って江戸へ逃げ帰ってきた時に最初にこの御殿に落ち着き、使者を江戸城に出して将軍家の格式を持った供揃えで江戸城に入りました。一説には馬に乗って江戸城に駆け込んだとも言われています。慶喜は臆病者とも言われていますが、私は全く違うと思います。慶喜は水戸家の出身で水戸学を幼少の頃から学んでいました。天下は徳川家が天と京都の天皇から預かったものであるとの考えが根底にあったと思います。彼が京都と対決を決意していれば、日本は大動乱でどちらが勝つか分からなかったと思います。当時最強の陸海軍は幕府が持っていました。陸軍はフランス国王から送られたフランス人将校が最精鋭の武器で訓練していました。海軍は鉄鋼戦艦を持っていました。鉄工所も横須賀に小栗上野介の努力で開業していました。当時のスチーム・ハンマーは最近まで現役で稼動していました。このスチーム・ハンマーは日本の工業の母とも呼ばれていました。このスチーム・ハンマーから現在の日本で作られた工業製品の大元を幕末から作り続けてきました。以上の様に戦争遂行する力は幕府軍が断然有利でした。しかし内乱となればヨーロッパ列強の餌食になることは明らかで、先の読め過ぎる慶喜には混乱を避け、帰順する事しか頭に無かったのだと思います。その証明は大阪から江戸へ逃げ帰ってくる時に会津と桑名の藩主を側から放さなかったのです。慶喜は二人がトイレに行く時も逃げないように監視を付けていたそうです。彼ら二人の藩主は本当の兄弟で兄は会津藩主で京都守護職を弟は桑名藩主として京都所司代を務めていました。大阪に残して戦いになれば幕府軍の中心に据えられる恐れがあったので江戸へ強制的に連れ帰ったのだと思います。慶喜の英断で日本は救われたのだと思います。

余談ですが、桑名藩の代表的な武人に立見尚文(たつみなおふみ)がいます。彼は幕末から明治時代の最高の将軍とも言われています。彼は幕末からの有名な陸軍将校で桑名藩から幕府陸軍第3連隊に出向しフランス軍将校達に最高の日本人士官と認められました。戊辰戦争では幕府軍からの脱走者を集め官軍を攻めました。明治の元勲達も彼の前では小さくなっていたとの話が残っているほどの猛将で、山県有朋は最後まで立見を避けて会わない様にしていたそうです。明治陸軍では賊軍出身で陸軍大将になりました。彼は中将の時の日露戦争で第八師団を率いて黒溝台会戦で壊滅状態の日本軍を救った将軍として有名になりました。この時第八師団は死傷者五割と言う全滅状態に陥りながら他の師団の援助を受けて秋山少将の秋山支隊の後方を支え続けました。この戦いで秋山好古少将は騎兵旅団を率いて戦い、騎兵隊を率いて塹壕陣地で戦いました。彼の支隊は兵・騎・砲の三兵種の混成部隊でした。前面に機関銃を大量配備し一対五の戦力でロシア軍の主力と戦い続けました。この戦訓が日露戦争のヨーロッパの観戦武官の目にとまり、後の第一次世界大戦の西部戦線で平原での塹壕戦の手本になったのです。「機関銃に守られた強固な塹壕陣地は破られない」と言う法則を実践し証明したのです。秋山少将(後に陸軍大将)は日本海海戦を指導した先任参謀の秋山真之の兄です。

話が長くなりました。近いうちに私の尊敬する近代日本の基礎を作った幕臣小栗上野介の話をしたいと思います。

晩唐の詩人「皮日休(ひじつきゅう)」の漢詩。

 落尽残紅始吐芳  残紅落ちつくして始めて芳(はな)を吐く

 佳名喚作百花王  佳名喚(よ)びて百花の王となす

 競誇天下無双艶  競い誇る天下無双の艶(えん)

 独占人間第一香  独り占む人間(じんかん)第一の香り

 世の中の花が散りつくして後に咲き始め

 その名は百花の王と称えられる

 天下に並ぶ物の無い艶やかさを誇り

 この世で最もかぐわしい香を放つ

皮日休は酒を飲み詩をつくり、酔吟先生と呼ばれました。進士に及第し太常博士となったが、黄巣の乱の時に、反乱軍に捕まり殺されました。 

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2008年4月24日 (木)

上野東照宮ぼたん苑 春牡丹1

4月22日に上野公園の上野東照宮にあるぼたん苑へ行ってきました。1月には冬牡丹で賑わいますが、4月になると春牡丹で賑わいます。やはり牡丹は東洋の花の女王ですね。素晴らしく綺麗でした。特に今年の春牡丹の咲き方は素晴らしいと思います。この日はフランス人の大観光客が来ていて、入苑するのが大混雑で大変でした。苑内に100人以上のフランス人観光客が入っていました。牡丹の香りに負けないようなフランス女性の香水が香っていました。やはりフランス女性は個性的な香水をつけています。おおむねオリエンタル調でしたので邪魔にはなりませんでした。

使用カメラはオリンパスE-3とレンズは軽さを選んでズイコーレンズ14-42mm&18-180mmと1.4Xのエクステンション+マルミのソフトフィールターです。微かにソフトがかかっている画像が多いと思います。

惜牡丹花         白居易

惆悵階前紅牡丹  惆悵す階前の紅牡丹   
晩來唯有両枝残  晩來唯だ両枝の残る有り   
明朝風起應吹盡  明朝風起らば應に吹き尽すべし  
夜惜衰紅把火看  夜、衰紅を惜しんで火を把りて看る  

がっかりするなあ、階前の牡丹の花は
夕暮にはただ二枝しか残っていない。
明日の朝風が吹けば必ず散ってしまうだろう。
色褪せていく花を惜しんで夜も灯火をかざして眺めている。

牡丹は平安時代の初めには日本に中国から渡来しています。しかし日本の和歌にはほとんど詠われませんでした。牡丹は平安時代は深見草(ふかみぐさ)と呼ばれていました。中国では牡丹は晩春・初夏の花です。日本で花は多くは桜を指します。中国では牡丹を指す事が多いようです。唐を代表する詩人の李白は玄宗皇帝と楊貴妃が興慶宮で催された牡丹を愛でる宴で玄宗皇帝から歌を作るように命ぜられ有名な「清平調詞三首」を詠いました。牡丹を楊貴妃に見立てた有名な歌ですが、この時、酒好きな李白は酩酊状態で、李白は後宮の有力者だった高力士に自分の履いていた靴を脱がさせる無礼を働き、それが後に李白が左遷される原因だったと言われています。

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