2009年12月 9日 (水)

小石川後楽園の紅葉1

12月2日の東京都文京区の小石川後楽園です。水戸徳川家の祖である徳川家康の11男の徳川頼房(よりふさ)が上屋敷に築いた築山泉水回遊式の庭園で、第2代藩主徳川光圀(水戸黄門)により改修された庭園です。名前の後楽園は中国からの亡命者で儒学者の朱舜水(しゅ しゅんすい)の命名と言われています。朱舜水は清朝に抵抗して複明運動を指導した中国と日本の混血の鄭成功(てい せいこう)とともに活動をし、江戸幕府へ中国へ出兵を要請するために日本へ渡ってきましたが抵抗運動から離れ水戸光圀の庇護のもと水戸学へ多くの影響を残した人物です。朱舜水は小石川後楽園にも大きな影響を与えたと言われています。岡山にも後楽園があるので、ここは小石川にある後楽園なので小石川後楽園と呼ばれています。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。池への紅葉の写りこみが綺麗なところです。

徳川尋子の辞世の歌の三首のうちの一首。

      梢より

    あらそひ落つる

      もみぢ葉の

    もろくなりゆく

    我が身なりけり

(意)梢から急いで落ちていくモミジの葉のように、はかなくなっていく私の命です。

徳川尋子(ひろこ)は徳川光圀の正妻で後陽成天皇の皇子で、近衛家の養子となった関白左大臣近衛信尋の次女です。17歳で光圀に嫁ぎ21歳で亡くなりました。夫婦仲は非常によかったようで、尋子の亡きあと光圀は後添いをもらいませんでした。もちろん側室はいたようですが。尋子は亡くなる時に辞世として三首の歌を残しています。

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2009年12月 8日 (火)

旧古河庭園の秋バラ

11月10日の東京都文京区の旧古河庭園の秋バラです。もともとこの庭園は明治時代の外務大臣だった陸奥宗光の本邸でした。陸奥宗光は紀州藩士で仙台の伊達家の分家の出身でした。幕末に軍艦奉行だった勝海舟の建策で作られた幕府海軍の士官養成所である神戸海軍操練所に入り塾頭の坂本竜馬の引立てにより副長格になり坂本竜馬の秘書的な役割を務めました。明治維新後、西南戦争の時には政府転覆を計画した土佐立志社と連絡を取り合っていた事が発覚して除族の上、禁固5年の刑を受け山形刑務所に収監されました。伊藤博文の尽力により特赦を受けて後、ヨーロッパへ渡りヨーロッパの政体を研究して帰国後、伊藤博文の勧めで外務省に入りアメリカ公使兼メキシコ公使として赴任して、日墨(メキシコ)間で日本としては初めての不平等条約を改定し平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。この条約が幕末に江戸幕府と諸外国との間で締結された不平等条約を対等な平等条約に変えていく始まりとなった重要な最初の条約締結でした。その後、山県有朋内閣の農商務大臣となりました。この時の農商務大臣秘書が後の総理大臣で大正10年に東京駅で暗殺された原敬です。

明治24年(1891)帝国議会で農商務大臣陸奥宗光は衆議院議員の田中正造から足尾銅山鉱毒事件について質問主意書を出されましたが、質問の意味が分からないと回答しませんでした。この時、陸奥宗光の次男潤吉が足尾銅山の経営者である古河市兵衛の養子となっていました。第2次伊藤博文内閣で外務大臣として迎えられ任期中に不平等条約締結国15カ国全部と平等条約を結ぶ事が出来ました。日清戦争ではイギリスと協調を維持して川上操六参謀次長と協力し対清強硬路線により戦争をより有利に導きました。戦後は全権大使として下関条約を清国との間で締結しました。その後、肺結核を悪化させ退官し西ヶ原の本邸(現旧古河庭園)で亡くなりました。陸奥宗光の本邸は宗光の次男潤吉(古河市兵衛の養子)が相続し古河家の所有となりました。古河財閥を作った古河市兵衛が亡くなると古河潤吉は古河財閥の2代目となりましたがほどなく病で亡くなり3代目は初代古河市兵衛の実子の古河虎之助が就任しました。なにかオカシナ感じがしますね。古河市兵衛は足尾銅山の鉱毒事件の対策として政府の要職だった陸奥宗光の子供を養子にする必要があったのでしょう。鉱毒事件の尻を政府に被せたのかもしれません。政商だった古河市兵衛なら十分に考えられます。

群馬県足尾を流れる渡良瀬川の下流域は足尾鉱毒事件により騒乱状態となり騒乱は利根川下流から霞ヶ浦周辺まで及びました。足尾銅山の近隣の村々は鉱毒の為に廃村となりました。政府は言論統制に乗り出し鉱毒を扱う新聞などを発禁とし、足尾鉱毒事件の処理に政府の主導で谷中村を立ち退かせ渡良瀬遊水地を作り鉱毒を沈殿濾過させました。まさに利益は会社に後始末は国家にの図式です。足尾鉱毒事件は佐野市出身の国会議員だった田中正造によって告発され、田中正造なくしては反対運動はどうなったか分からなかったと思います。

旧古河庭園は古河財閥が戦後物納したため国の所有となり東京都が管理をしている庭園です。ここの春のバラは洋館とマッチして素晴らしい美しさです。秋バラも素晴らしいです。日本庭園もなかなか風情のある和風庭園です。この日は植木屋が入っていて梯子などが邪魔でした。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&タムロン90mmマクロです。ソフトはカメラ内のデジタルフィールターです。

今日は太平洋戦争の始まった日ですね。310万人もの多くの日本人が亡くなりました。東南アジアや連合国も多くの人が亡くなりました。武力での戦争はこの日に始まりましたが、その前に世界大恐慌からの経済戦争がありました。日本は経済戦争に負けて孤立化の道を歩んだため枢軸国側に立ち武力による戦争へ突き進んで行きました。愚かしい事です。昨夜のNHKTVの「日米開戦を語る なぜ海軍は過ったのか」を見てつくづく愚かな戦争を始めたのに、誰も途中で止められなかったのか疑問だけが残りました。

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2009年12月 7日 (月)

唐沢山の紅葉1

11月28日に栃木県佐野市の唐沢山へ行ってきました。唐沢山は唐沢城が昔あった場所で江戸時代初期に廃城となって明治になり本丸跡に唐沢山神社が鎮座しました。唐沢城は平将門征伐に大功のあった、藤原秀郷が築いたと言われている城です。藤原秀郷は藤原北家房前の子孫と言われています。秀郷は延長5年(927)下野国の押領使として佐野の唐沢山に本拠を構えました。押領使とは現代の県警察本部長です。平将門が都に対して反乱(天慶の乱)をおこし関東8カ国の国府を攻め滅ぼし新皇と称し独立しました。この時に藤原秀郷は平貞盛(伊勢平氏の祖で、武士として初めて太政大臣となった平清盛の先祖)と力を合わせ平将門を下総国辛島で攻め滅ぼしました。その功によって秀郷は唐沢山に本拠を持ちながら下野国守となり後に武蔵国守を兼務するようになりました。その後、江戸時代初期まで700年ほど代々唐沢城は秀郷の血筋の佐野氏が城主を務めました。佐野家は江戸初期に幕命によって唐沢城を出て現在の佐野市内城山公園に春日城を築き始めましたが、完成前に佐野家は慶長18年(1613)に理由がはっきりしないのですが改易となり、後に3代将軍家光により旗本として取り立てられました。

唐沢山は非常にモミジの紅葉が綺麗な場所です。毎年のように行っていますが、今年はやはり赤が少ないですね。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mmです。

画像はクリックで大きくなります。

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2009年12月 6日 (日)

下野国 雲巌寺の秋2

11月15日の栃木県大田原市(旧黒羽町)の雲巌寺です。寺伝によれば叟元和尚によって大治年間(1126~1131)開基されたと伝えられています。仏国国師によって開山されました。仏国国師の元に日本中から優秀な僧侶が集まり多くの弟子が雲巌寺から育ちました。京都と鎌倉で多くの寺院の住職を務め、沢山の禅風の庭園を造作した夢窓疎石(むそうそせき)も雲巌寺で仏国国師のもとで修業をしました。

風雅集から仏国国師の歌。

      夜もすがら

    心のゆくへ

      たづぬれば

    昨日の空に

    とぶ鳥の跡

(意)夜を徹して心の行方を探し求めていると、まるで昨日の空に鳥影の飛び去った跡を追うかのようで、虚しいことよ。

仏国国師は後嵯峨院の第三皇子と言われています。上野国長楽寺で無学祖元の弟子となり、鎌倉の建長寺で住職の中国明州慶元府(浙江省)出身の無学祖元から伝法衣を授かりました。伝法衣とは法脈相承の証として師から弟子に受け継がれる袈裟で、禅宗において特に重要視されるものです。仏国国師は雲巌寺を開いてからも鎌倉の浄妙寺・建長寺などの住職を務め、最後は雲巌寺に戻り亡くなりました。

雨の中での撮影でした。雨用のオリンパスE-3とズイコー14-54mm&50-200mmです。やはり長い間使っていてオリンパスの防塵・防滴は信頼できます。

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2009年12月 5日 (土)

旧黒羽町 浄法寺

11月15日の栃木県太田原市の旧黒羽町の黒羽城址の隣にあった城代家老の浄法寺高勝(図書)の屋敷跡です。浄法寺はお寺ではなくて名前の苗字です。浄法寺高勝は鹿子畑高明の次男でしたが伯父の城代家老の浄法寺家へ養子として入りました。大関高増が大田原から出て大関氏の名跡を継ぐときに鹿子畑能登は大田原氏の家来でしたが、付家老として大関高増を後見をしました。鹿子畑能登の子孫である浄法寺高勝は禄高500石の城代家老を務めていました。浄法寺高勝は松尾芭蕉の弟子で俳号を桃雪と号しました。松尾芭蕉が奥州への旅の途中で黒羽に13泊し、城代家老の浄法寺の屋敷内の庵に13泊のうち8泊しました。よほど黒羽が気に入ったのでしょう。写真の中の句碑の場所に芭蕉の滞在した庵がありました。

 山も庭 もうこき入るや 夏座敷    芭蕉

この歌は浄法寺の屋敷に滞在していた時に庵で詠まれた俳句です。奥の細道に浄法寺家の屋敷の庵の事を「地は山の頂にささへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるようになん。水の音、鳥の声、松杉のみどりも こまやかに、美景たくみを尽す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや」と書かれていて、いまだにその面影が残る素晴らしい屋敷跡です。本当に美しい庭でした。入口に季節外れの紫陽花が数輪綺麗に咲いていました。この日は朝から強い雨でした。雲巌寺から芭蕉の館までは傘をさしての撮影でしたが、浄法寺のころは小雨になりました。旧黒羽町は紅葉の綺麗なところです。まだ観光バスが入っていないので荒らされていません。カメラは雨にメチャ強いオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。

浄法寺氏については詳しい事は分かっていません。栃木県那珂町(旧小川町)に館があったようで那須七騎の大関氏の家来でした。浄法寺氏として有名なのは鎌倉幕府の重臣だった畠山重忠の三男の重慶で、鎌倉幕府によって畠山一族が攻め滅ばされた時に三男だけは僧籍にあったために奥州へ逃げ出す事が出来、浄法寺氏を名乗り代々南部氏の重臣として岩手県二戸地方を治めた大族でした。鎌倉の浄法寺で修業をしていたので浄法寺を名乗ったとも言われています。浄法寺氏は慶長8年(1603)に南部氏に対する反乱に加担したとして改易処分されました。黒羽の浄法寺氏との関係は分かりませんが名前からして何らかの関係があったと思われます。

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2009年12月 4日 (金)

平林寺の秋2

11月24日の埼玉県新座市の平林寺の紅葉です。平林寺の境内の雑木林の中に野火止用水の跡が残されています。今は水は流れていませんが私が高校生時代には志木市の学校の敷地には野火止用水が江戸時代からズッと流れ続けていました。高校へ入学したころは小川のように流れていましたが2年目の夏休みが終わった時には学校の周辺は乱開発で今まで見えていた雑木林や畑は完全に姿を消していました。そこには消防自動車も入れない迷路のような新しい街が突然出現していました。それにつれて、流れていた野火止用水は白濁して泡を出して流れが完全に止まっていました。酷いものでした。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&ミノルタ500mmです。

野火止用水は立川市の玉川上水から分水して新座市を通って埼玉県志木市の新河岸川へ落ちていました。別名「伊豆殿掘(いずどのぼり)」と呼ばれています。野火止用水は川越藩主だった老中松平伊豆守信綱が部下に命じて掘削させた用水路で、もともとこの周辺は水が不足して生活に必要な飲料水の入手にも苦労する土地でした。野火止用水は飲料水としても農業用水としても当時の水不足の土地を新田開発などで豊かに変えてくれました。古代は武蔵国は行けども行けども無人の野でした。ここへ大和朝廷は朝鮮からの亡命皇族の一族などを移住させました。彼らは当時の高等技術であった土木建設に巧みでした。彼らでなくては水不足の武蔵の大地に数十メートルの深い井戸や湧き水を上手に使った灌漑施設は作れませんでした。古代の大和朝廷は古代官道沿いにほぼ一定間隔に寺院を建て駅舎を整備しその周辺に帰化した人々を住まわせました。それらが荘園を作り後に武蔵七党と呼ばれる在地武装集団を構成して行ったのです。彼らは中央から送り込まれた大氏族の源・平・藤原氏の国の守の一族などの大族とは、ある時は協力してまたある時は争いながら武蔵野に荘園を増やして行きました。武蔵七党は関東各地に分散し、都から天下ってきた大氏族系豪族と婚姻関係を結びながら、ともに鎌倉幕府の御家人等となり全国へ守護地頭として分散して行きました。

新古今集から大江匡房(おおえのまさふさ)の歌。

      妻恋ふる

    鹿のたちどを

      尋ぬれば

    さ山がすそに

    秋風ぞふく

(意)妻を恋しがって鹿が鳴く。その声をたよりに、鹿のいる場所を求めて野を行くと、狭山の山裾には秋風が吹いていた。

この歌は武蔵野を詠ったとも言われています。昔は武蔵国の狭山(埼玉県狭山市)あたりに狩場があったようです。

沖縄の普天間基地の問題は来年に持ち越すようです。この際、思い切って旧建設省や旧運輸省の行った天下の無駄使いの標本である関西空港をアメリカ軍に呉れてやったら良いのだと思います。関西には伊丹・神戸空港があれば十分だと思います。関空を米軍が使えば良いのだと思います。不確かなのですが、橋下大阪府知事が言っているようなのですが、正論ですね。無駄使いが有効利用出来ます。専門家によると航空管制上は問題が無いようです。アメリカ軍は嫌がるでしょうが、贅沢は言わせなければいいのです。困るのは銭勘定を済ませてしまっている日本の建設土木業者と政治家それと基地で働く日本人の雇用問題でしょう。沖縄基地の問題はアメリカを隠れ蓑に使った日本の業者と政治家事情なのでしょうね。せっかく政権交代したのです、この際、ズバッと切ってしまえば良いのです。

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2009年12月 3日 (木)

六義園(りくぎえん)の紅葉1

11月29日の東京都文京区の六義園の紅葉です。ここの紅葉は都内では有名です。夜はライトアップされます。第5代将軍徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保の下屋敷でした。徳川綱吉は3代将軍徳川家光の四男で、上野国館林藩の藩主で将軍になる前は松平綱吉でした。兄の4代将軍徳川家綱が亡くなると5代将軍として江戸城へ入りました。柳沢吉保は館林藩主だった綱吉の小姓として仕え、徳川綱吉の江戸城入りに従い将軍の小姓となりました。綱吉の寵愛を受けて小納戸役から側用人となり大名になりました。後に老中格となりました。後に関東の守りの要で徳川一門だけが藩主になれる甲府藩15万石の藩主となり大老格となりました。老中格の時代は川越藩の藩主として三富新田(所沢市三芳町)の開発を進め、今でも当時の面影を残す武蔵野の田園風景が残されています。この辺りの古い農家には先祖の位牌と柳沢吉保の位牌が並べられているそうです。

六義園は柳沢吉保の下屋敷に作られた庭園で水戸光圀の作った小石川後楽園と並んで江戸二大大名庭園と呼ばれていました。代々の柳沢家の下屋敷とされましたが次第に荒廃し明治維新後は三菱財閥の総帥の岩崎弥太郎の所有となり戦前に東京市に寄贈されました。六義園の名前の由来は古今和歌集の紀貫之が書いた仮名序にある六義(むくさ)にあり、六義園(むくさのその)と呼ばれていました。ここは春の桜に続きツツジでも有名です。秋のモミジは池に写りこむモミジが素晴らしいです。また赤い色、黄色い色、緑色のモミジのコラボは素晴らしいの一言です。今年は特に黄色いモミジの黄葉が綺麗でした。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。

オバマ大統領がアフガンへの増派を決めました。撤退するための増派とは共和党などのキリスト教原理主義者への配慮でまたアメリカ人兵士の血が流されるのでしょうか。この戦いはイラクに続いてアメリカの完敗です。これでタリバンはどんな戦略・戦術でも出来るようになりました。戦ってアメリカを泥沼に引きずり込む事も出来ますし、アメリカが撤退するまでジッと待つ事も出来ます。国民の支持のない腐敗したカルザイ政権は簡単に転覆させられるでしょう。まさにベトナム戦争の再来です。同じ経過をたどっています。アメリカの西部開拓史時代から続く、教え助けてやると言う押しつけお節介の理論の敗北でしょう。アメリカインデアンを圧殺したようには行きません。アフガンのカルザイ大統領の弟がヘロインの密造の黒幕でその資金がアメリカが戦っているイスラム原理主義のタリバンの資金になっているなんてお笑いです。毎日のように罪もないアフガン市民がアメリカやタリバンの自爆テロで殺されています。殺された人の家族は当然反米になりタリバンの兵士の数を増やしていくのです。そんな馬鹿をしているアメリカに日本は協力する必要はないと思います。ブッシュ・ブレア・小泉はお馬鹿さんの見本です!彼等は人道への犯罪者として国際司法裁判にかけるべきです。

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2009年12月 2日 (水)

中野市 一本木公園の秋バラ2

10月31日の長野県中野市の一本木公園の秋バラです。中野市は一般には信州中野と呼ばれています。志賀高原への入口にあたり千曲川が蛇行して市の西部を流れています。源平時代から高梨氏が治めていました。戦国後期には越後にも少し領地があったために越後の長尾(上杉)氏と関係を深め武田信玄の北信州侵攻により中野を追い出され、少し北方の北信州の最北の飯山郷に追い込まれました。その後、川中島の合戦後に北信濃国人衆は徐々に上杉家の家臣団に組み込まれていきました。織田信長が滅びた後に上杉景勝が北信州に入り、高梨氏も中野の地に再び戻りましたが、上杉景勝の会津移封に従い中野から会津に移りました。江戸時代の中野は天領として代官所の中野陣屋が設けられました。

一本木公園には信州忽布(ホップ)発祥の碑があります。大正時代初期に大日本麦酒(株)が、ビールに苦みと香りをつけるためのホップの自給のために、この地で栽培を開始しました。大日本麦酒(株)は戦後アサヒビールとサッポロビールの2社に分割されました。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&タムロン90mmです。ソフトフォーカスはカメラ内のデジタルフィールターです。

先日、タイヤをノーマルからスタッドレスに替えてきました。ノーマルタイヤは2輪にスリップマークが出てきたので来春には新しいタイヤを履かないといけないようです。デフレですからタイヤも安くなっているようです。車は来年の1月で3年目に入るので来年3月に乗り換えるか、来春に新しいタイヤを買って2年ほど走るかが問題です。その場合は来年11月にスタッドレスも買い替えないといけません。2年間で5万キロ以上走るので4年間だと10万キロを超えてしまいます。これでも最近は昔に比べて走らなくなっているのです。スタッドレスに替えると高速道路でスピードを出せなくなります。それだけ安全運転になりますが、何となく不満!です。もうそろそろ年齢の事を考えないといけないですね。

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2009年12月 1日 (火)

日光田母沢御用邸記念公園の紅葉2

11月2日の日光市の田母沢御用邸記念公園へ行ってきました。生憎の大雨で日光東照宮から帰ろうと思ったのですが、思い切って御用邸へ行ってきました。御用邸の紅葉は綺麗だと聞いていましたが、これほど素晴らしいとは思いませんでした。やはり芸術家肌だった大正天皇が皇太子時代から避暑地として、また天皇に即位してからも静養のために御座所を設けただけの事があります。今はほとんどの土地を東京大学大学院の日光植物園へ管理を移していますが明治・大正時代の田母沢御用邸は日光の自然に囲まれた素晴らしい御用邸だったのでしょう。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmG&シグマ50mmF1.4です。

大正天皇の漢詩

 歳晩

 北風凛洌透人肌
 正是今年欲暮時
 愛日己臨南殿外
 寒梅早有著花枝

(意)北風が凛として人の肌を刺す
   今まさに今年も暮れんとする時
   冬の光はすでに紫宸殿の外にまで届き
   寒梅には早くも花をつけた枝が見える

素晴らしい漢詩ですね。やはり大正天皇は素晴らしい文化人だったと思います。大正天皇の漢詩と和歌は万葉時代からの歴代の天皇の中でもトップクラスだと思います。歳晩とは年の暮れの事です。少し早いかもしれませんが今日から師走です。

ドバイ恐慌が始まってしまいましたね。これは世界大恐慌の前触れかもしれません。むかし日本にもニューヨークから1929年秋に始まった世界大恐慌は翌年の1930年(昭和5年)日本にも飛び火をしてきました。これを昭和恐慌と呼び、1927年(昭和2年)から始まった昭和金融恐慌とは区別をされています。この昭和恐慌により日本政府は円安を利用して輸出を急増させる政策に変更しました。これにより植民地を多く持っていた欧米各国は通貨防衛のためにそれぞれの通貨のブロック経済を構築する事で対抗しました。日本は欧米の経済ブロック化への防衛の目的で日本・満州・中国の経済ブロックを構築するために中国各地へ軍事進出しました。言い方によっては日本は追い込まれたのです。日本と同じ後発資本主義国であった。ドイツ・イタリアもそれぞれの国の通貨の勢力拡大に努めました。それが枢軸国対連合国の対立だった第2次世界大戦の始まりの始まりでした。昭和恐慌の前に予兆として昭和金融恐慌があったと見れば、数年前にあったミニバブルの破綻が昭和金融恐慌と同じように見えます。状況は両方とも非常に似ています。第2次世界大戦は昭和16年に始まったのではなく昭和2年の昭和金融恐慌から始まっていたのです。戦争は軍事力だけで始まるものではなく、経済が先行し、経済で処理できなくなったときに武力の行使で決着をつけるのです。それを考えると昭和の時代に先立つ大正時代の天皇の心痛は大変なモノがあったのだと思います。平和主義者の天皇の存在は国家主義者や国粋主義者にとっては厄介者でしかなかったのだと思います。

恐慌が始まる時は経済評論家や経済専門家には対策は立てられません。聞いても概念的な事しか答えられないのです。やはりここは政治家が判断して舵を切って行かないといけないのでしょう。私は専門家ではないのでよく分かりませんが、歴史を見ると恐慌はいままで何度かあるようです。戦争で解決すると回復までの時間が割合短いですが、戦争でも解決しないと非常に長く時間がかかります。場合によっては百年単位の話でもあります。いまとりあえず言える事は現金を握ってじっと動かないのが一番です。ローンは親や兄弟の力を借りてでも、いま返せるだけ返済することでしょう。もともとローンとは現金の裏打ちなしで何十年先に返済しますと小切手にサインするようなものです。住宅ローンは国家の詐欺の一つです。むかしの世界は鉄は国家なりでした。いまは日本に限らす世界中が住宅産業を育成する事で産業を興してきたのです。そこまでは間違いではなかったのです。国家は国民に持ち家は財産になると嘘を教えたのです。マンションは35年後はスラム化している可能性が高いと思います。それでも国民は買い進めています。つまりそれは財産を持ちたいと言う国民の欲求を利用しただけなのかも知れません。人口が明らかに減って行くのに土地は財産なのでしょうか?もう遅いかもしれませんが、今こそ立ち止まって冷静に考えるべきでしょう。いま考えると大正時代は15年と短かったですが良い時代だったのかも知れません。

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2009年11月30日 (月)

平林寺の秋1

11月24日の埼玉県新座市の平林寺の秋です。この週が平林寺の紅葉の最盛期だったでしょう。今年の紅葉はどこでも葉の先が枯れていたり、中ほどが枯れている葉が目立ちます。また赤い色のモミジが今年は関東中どこでも少ないです。赤くなるほど冷え込んでこないのでしょうね。平林寺は首都圏では有数な紅葉の名所で、多くの観光客やカメラマンを集めます。この日も凄い人でした。どこにカメラを向けても人の頭が入ってしまうのでカメラを大きく上に向けないといけません。また最近はデジ一眼でもデジカメのように液晶でピントを合わせる人が多く1枚の写真を撮る毎に画像をチェックするのでかなりの時間がかかります。後ろで順番を待つにはかなりの我慢をしないといけません。カメラはソニーα900とVarua-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

平林寺は永和元年(1375)に大田備州沙弥蘊沢により埼玉県さいたま市岩槻区(旧岩槻市)に開基されました。大田備州沙弥蘊沢とは誰なのか私にはわかりません。一説には太田道灌の祖父か曾祖父だとも言われていますが田と田の違いがあります。もっとも昔はあまり漢字にはこだわらなかったのかもしれません。江戸時代前期に川越城主であった松平信綱・輝綱父子によって現在の埼玉県新座市野火止の地に移されました。平林寺の裏の雑木林は武蔵野がそのまま残されていて国の天然記念物に指定されています。50年ほど前はこの辺りはほとんどが雑木林で、その中に畠が少しあって農家が点在する場所でした。45年ほど前から急激に住宅開発が進み雑木林がどんどん無くなってしまいました。

新古今集から源通光の歌。

      武蔵野や

    ゆけども秋の

      果てぞなき

    いかなる風か

    すゑに吹くらむ

(意)武蔵野は行けども行けども、秋の景色も、あわれ深さも果てがない。野の果てには、どんな風が吹いているのだろうか。

「いかなる風」は藤原定家が書き表した歌学書「定家十体」では「いかなる風」となっていて、の方が正しいとの意見が多いようです。昔の武蔵野はこの歌のように人がほとんど住まない広大な土地だったのです。

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2009年11月29日 (日)

富士山と河口湖と山中湖の紅葉

11月21日に河口湖と山中湖へ行ってきました。西湖へは高校マラソンで進入禁止でした。河口湖畔の有名な紅葉の回廊はほとんど終わっていました。湖畔の一個所だけが紅葉の最盛期でした。今年は早いですね。最後の6枚は山中湖畔の写真です。やはり富士山は綺麗ですね。最近は何時も富士山は見えなかったのですが本当に久しぶりに富士山を拝む事が出来ました。最近は天候がおかしいですね。カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mm&ミノルタ500mmです。ワンちゃんはルイ君です。

万葉集から高橋虫麻呂の富士山を詠った長歌。詞書に「不尽山(ふじのやま)詠む歌一首并せて短歌」とあります。

〈万葉仮名〉
奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出<立>有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香<聞> 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞

なまよみの甲斐(かひ)の国 うち寄する駿河(するが)の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本の大和の国の鎮めとも います神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも

(意)甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。

万葉仮名は面白いですね。多分、朝鮮から渡ってきた多くの日本の貴族達には大和言葉と古代南朝鮮語が共通語だったのかも知れません。以前、ブログに書いとこともありますが、古代日本の大和朝廷では多くの朝鮮からの使者が来ていますが、通訳がいたとの記録はありません。多分、大和朝廷の貴族はほとんどが朝鮮から渡ってきた朝鮮の貴族達だったので言葉には不自由はしなかったのだと思います。万葉仮名も日本と朝鮮の研究が進むと、読み方も意味も大きく変わるかもしれません。

高橋虫麻呂は藤原不比等の三男で藤原式家の祖である藤原宇合(うまかい)の従者だったと言われています。藤原宇合が常陸国の国守として赴任した時に一緒に行ったようで、東国で詠まれた長歌が万葉集に多く残されています。高橋虫麻呂は万葉の時代では有名な歌詠みだったようで、武蔵国衙に藤原宇合の使者として行った時には有名な歌詠みが来たと歓待されたようです。また大伴旅人が常陸国へ検税使として来た時に大伴旅人に付いて一緒に筑波山へ登った時の歌が万葉集に載っています。

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2009年11月28日 (土)

旧黒羽町 芭蕉の館

11月15日の栃木県大田原市の旧黒羽町の芭蕉の館の庭と傍にある雨社稲荷神社です。雨社稲荷神社は由来などは分かりませんが、黒羽城の城外にあったお稲荷さんだと思います。このお稲荷さんの周辺にかなり大きな土塁が二箇所あるそうで、この神社も黒羽城の防衛の拠点の一つとしてお稲荷さんがあるのかもしれません。芭蕉の館は黒羽城の三の丸の跡に建てられ黒羽の町の歴史等を展示してあります。

黒羽城は那須国の土着土豪の那須七騎の一つである大関氏の築いた城です。那須七騎とは那須家を中心とする大関・大田原・福原・千本・芦野・伊王野の七氏です。武将として有名な大関高増は大田原氏出身で大関増次が大田原資清との争いで滅びたために大田原資清の息子の高増を大関氏の跡継ぎに送り込みました。それ以来、大田原氏と大関氏は連携して幕末まで大名として続きました。豊臣秀吉の小田原攻めでは那須家は参陣しなかったために取潰されましたが、他の家々は小田原へ参陣したので大名や旗本として幕末まで残った家が多いのです。後に那須家も名門ゆえに徳川家康により旗本として召し出されました。那須衆は交代寄合として旗本でも領地に陣屋を持ち参勤交代を許されていました。なお、那須衆のうち伊王野家と千本家は江戸初期に跡継ぎがなく断絶しましたので那須衆は大名となった大田原家の分家である旧烏山町森田に領地があった大田原家の四家となりました。後に千本家は再興を許され旗本に戻りましたが那須衆とは区別されていたようです。大田原・大関家はそれぞれ大名となっています。

大名は原則として1万石以上で幕府の行う公共事業や幕府関係の城普請にはお手伝いとしてお金や人員を出す決まりでした。それを逃れるために各藩は江戸屋敷に外交官として留守居役を置き、お手伝いから逃れるために活動をしていました。各藩の留守居役はその禄高のクラスや地方ごとに毎晩のように会合を高級料亭で開き情報交換に励みました。各藩は留守居役の情報や腕次第で幕府からの莫大なお手伝いを課せられる事から逃れる事が出来るので資金は惜しみませんでした。留守居役の仕事は幕府の有力者への付け届けや幕府有力者や、その側近への根回しにも及びました。江戸時代は高級料亭や高級食材屋の今で言うところのギフト券が発達し大名同士や旗本同士で盛んにやり取りをされました。それが江戸文化の粋を築いたほんの一端でもあります。

旗本は原則として1万石以下の将軍家直参の武家です。旗本にはお手伝いの義務はありませんが寄合御役金を幕府に納める義務がありましたが、100石につき2両程度で軽かったのです。大身旗本は下手な大名より豊かな生活ができました。高級旗本には2種類ありました。例外が多いですが原則として3000石で線引きされ普通の旗本は寄合旗本と呼ばれ若年寄支配で江戸定府が義務付けられていました。一方、旗本交代寄合は老中支配で役職には就かない事が決まりでした。交代寄合旗本は特別の由緒がある地方の大豪族の末裔や大名家の分家、改易された大名家の名跡を継ぐものなどで3000石以下でも交代寄合になれ領地に陣屋を構える事が許されていました。領地は先祖伝来の土地や先祖が昔に治めていた土地が多かったようです。江戸城内の伺候席(しこうせき)は大名と同格で一般の旗本とは明確に区別されていました。伺候席とは江戸城内での控えの部屋の事で家格や役職や官位によって部屋が決まっていました。小禄で交代寄合旗本になったのに松平郷松平家(松平太郎左衛門家)があります。徳川家康の先祖の発祥の家で250石でした。後に加増され440石になりました。領地の三河国松平郷に陣屋を持ち参勤交代出来る家柄で江戸城内では250石でも大名格でした。代々当主は松平太郎を称していました。明治維新後の函館新政府の副総裁だった松平太郎とは別人です。

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2009年11月27日 (金)

野尻湖畔の秋1

10月31日の野尻湖畔です。今回は野尻湖畔の国際村です。野尻湖は秋が始まりました。例年より少し遅れ気味な始まり方でした。野尻湖畔の北側には国際村があります。軽井沢に次いで日本で2番目に古い別荘地でカナダ人宣教師達が軽井沢の俗化を嫌って野尻湖畔へ移って来たのです。昔は交通手段やコミュニケーションの手段が無かったので1年に一度の夏休みに日本中から外国人が野尻湖畔に集まって情報交換の場としていたそうです。野尻湖はいまはバス釣りで有名ですが、人のあまりいない俗化されていない静かな湖です。国際村は湖畔から野尻湖畔の別荘は北斜面に建てられていて、それぞれ出身国の独特な形をしています。日本人と外国人は余暇に対する考え方が全く違います。国際村は夏には非常に賑わいます。外国人は長期休暇を取れるのでしょうね。日本人の別荘地帯は対岸の南斜面に建っています。夏は日が当って北斜面の国際村より暑いです。野尻湖畔の南側の日本人別荘地の下に野尻湖畔で唯一美味しいピザを食べさせてくれる店があります。店の名前は「甲比丹(カピタン)」(Tel026-258-2347)です。この店のピザは本当に美味しいです。この店に国際村の住民が夜に懐中電灯で道を照らしながら歩いて食べに来ます。3キロ以上あるでしょうか。ほぼ1時間近くかけて家族連れで食べに来ます。往復ですから大変ですが彼らは絶対車は使いません。この辺の考え方も日本人とは違うと思います。私も野尻湖畔へ行くと必ず1回はこの店で食べます。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。

昨日、北鎌倉と横浜の三渓園へ行ってきました。北鎌倉はホームから前の列車の人が出ないうちに次の列車が着いてしまい大混雑でした。特にお歳の方が多いのでホームを下りるのに時間がかかります。三渓園は学生時代に日吉の授業が休講になり時間が余ったので友人の車で三渓園へ行った時以来でした。40年以上前の話です。北鎌倉は紅葉の盛りに近かったです。三渓園は今月中でしょう。しかし、三渓園は素晴らしいですね!

厚生省の元事務次官夫婦の殺害犯の裁判が始まりました。これは裁判員裁判ではないようですね。殺された夫人は私の小中学校の同級生でした。犯人はキチガイですね!これからこの様な事件が増えるでしょうね。景気が悪くなると犯罪が増えます。精神科の医者はあまりにも簡単に抗鬱剤(覚せい剤と同じようなもの)を出しすぎます。自分で自分を守るのも限界があります。警察官の増員が必要ですね。公安部門は減員して刑事や生活安全部門を増強して交番や駐在所を増設して警察官などを必ず24時間配備する必要があると思います。この際、補助警察官組織を作る必要もあるのではないかと思います。首都圏では人身事故での電車の遅れが目立ちます。今年の12月はもっと増えるでしょうね。

日本の円が高くなっています。円が高いのではなくてドルが安すぎるのでしょう。アメリカの政策的な景気浮揚策の一つでしょう。日本はますます円高でデフレに拍車がかかるでしょうね。最悪です!菅大臣もデフレ宣言するのなら同時にデフレ対策を発表すべきです。国民誰もがデフレは認識しているのです。政府にデフレ対策が無いのなら日銀のようにデフレとは言い切れないと言い続けたほうがまだマシです。輸出企業は大変でしょうね。私の大学の同級生で一番仲の良かった男が某大手製造輸出会社のCFO兼副社長です。アメリカから帰ってきてCFOになってからTVに度々出てくるのですが、いつも謝ってばかりで気の毒です。これからも謝り続けるのでしょうね。まあ、年収数億円以上ですから当然とも言えますね。これからの日本経済は大変でしょうね。私は半分引退していてボケ防止で働いているので気が楽です。

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2009年11月26日 (木)

下野国 雲巌寺の秋1

11月15日の栃木県大田原市(旧黒羽町)の雲巌寺の紅葉です。この日は朝から大雨でした。午後になって雨があがってきましたが、雲巌寺では傘をさしながらの片手撮りでした。雨に強いオリンパスを持ち出しましたので雨の心配はほとんど必要ありませんでした。しかし、PCへ落としてノイズが目立ちました。やはり雨で暗かったのでISO3200程になりました。カメラではとてもノイズは取れませんでした。今年の秋は雨と風が強く晴天は2日と続きませんね。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mmです。オリンパスE-3はノイズに弱いですが良く撮れるデジ一眼です。

雲巌寺は弘安6年(1283)鎌倉幕府の執権北条時宗が大壇越となり、後嵯峨天皇第三皇子仏国国師が禅堂を開きました。筑前の聖徳寺・紀州の興福寺・越前の永平寺と並んで禅宗の日本四大道場の一つです。雲巌寺とは唐の蘇州虎丘山に似た千丈岩があることから雲厳寺と号したと言われています。天正18年(1590)烏山城主那須資晴は小田原参陣を果たさなかった為、豊臣秀吉による奥州仕置きの対象となり兵を向けられました。その際、那須資晴が雲厳寺に逃げ込んだとの噂が流れ、秀吉軍は雲厳寺を焼き討ちにしたと言われています。山門などは幸いにして戦火から逃れる事が出来ました。また雲巌寺へは松尾芭蕉も立ち寄り1句を残しています。また雲巌寺のある旧黒羽町須賀川地区は美味しいお茶の最北端とも言われあまり有名ではありませんが美味しいお茶の産地です。

奥の細道より松尾芭蕉の句。

  啄木(きつつき)も 庵はやぶらず 夏木立

(意)何でもくちばしで突いて穴を空けるキツツキでさえも仏頂和尚の庵は突いて壊さない。

松尾芭蕉は奥の細道の道中、那須・黒羽で実に13泊も滞在しています。その中で、雲厳寺に立ち寄ります。芭蕉は深川の臨川寺で仏頂和尚に禅を学んでいるのですが、その仏頂和尚が修行時代に住んでいた山居(庵)が雲厳寺にあり、山居を見るために訪れています。仏頂和尚はこの山居のことを
 竪横の 五尺にたらぬ 草の庵
    むすぶもくやし 雨なかりせば

と読んでいます。意味は「たてよこ5尺に足りない程の質素な庵に住んでいるが、雨さえ降らなければ庵さえいらないのに」という俗世への欲を捨てている様子が伺えます。その和歌に芭蕉は惹かれ、自分の目でその庵を見たいと思ったのでしょう。芭蕉は実際に訪れ、山居を見て上記の俳句を詠んでいます。 

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2009年11月25日 (水)

作原の秋

11月16日の栃木県佐野市(旧田沼町)作原の秋です。今年は少し遅すぎました。例年より1週間は早かったようで盛りは過ぎていました。ここの紅葉は真っ赤に燃えて素晴らしいのですが少し遅かったのでかなり色落ちをして葉が落ちていました。作原の紅葉は最近は有名になり最盛期は人で溢れます。昔はほとんど人に知られない隠れた紅葉の名所でしたが、あるプロカメラマンがここへ迷い込み写真雑誌で紹介したことから有名になりました。私も20年以上前にここへ迷い込んで偶然見つけた場所でした。ここは高い崖に囲まれているために日が差してくるのが昼過ぎ頃になります。昔は崖から細い滝が落ちていたのですが最近は水が枯れたのでしょうか滝を見る事が出来ません。ここの山モミジは旧田沼町の道路改修工事で切り倒されるはずでしたが、幸い地元のアマチュアカメラマンの反対運動で一部が切られただけで済みました。栃木県の佐野市や鹿沼市は渓谷が多く秋は紅葉の綺麗なところです。カメラはソニーα900とVaria-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

続拾遺集から式子内親王の歌。

      おもへども

    今宵ばかりの

      秋の空

    ふけゆく雲に

    うちしぐれつつ

(意)名残惜しく思っても、今宵限りの秋の空です。更けてゆく夜の雲に、ぱらぱらと時雨が降ってきて。

続拾遺集では「ふけゆく雲」となっていますが、藤原基家撰の私撰集「雲葉集」では「ふけゆく雲」となっていて一般的には「ふけゆく雲」が正しいと思われています。にすると雲を眺めながら涙を流す余韻があるそうです。

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2009年11月24日 (火)

11/8 桐生川の紅葉2

11月8日の群馬県桐生市の桐生川の紅葉です。桐生と言えば有名なのが絹織物と八木節です。元々はお隣の足利から八木節の原型は始まったようです。絹織物は奈良時代からこの地へ当時としては高等技術であった養蚕の技術を持った渡来人達が大和朝廷から桐生地方へ送られて、朝廷への租税として租・庸・調のうちの正調として献上されました。古代では絹織物は天皇の家族や高級官人・貴族だけが身につける事が出来ました。絹を税金として納めるのは調絹(ちょうきぬ)と呼ばれ、それ以外の布(絹以外の布)は調布(ちょうふ)と呼ばれ明確に区別しました。東京都下の調布はこの呼び方から地名となりました。

八木節は色々な型があり旋律も歌詞も一定しませんが、それぞれの地方で独特な歌い回しがあったようです。八木節と言えば有名な初代堀込源太でしょう。彼は足利の八木宿に明治の初めに生まれた馬方だったと言われ八木節を日本中に広めました。2代目だと思いますが私の父が中国戦線から戦後引き揚げてきた時に祖父の法律事務所を引き継いで最初に扱った事件が堀込源太の八木節本家争いでした。当時、八木節を色々な人が本家を名乗っていて混乱していたのですが裁判によって本家を名乗る事は堀込源太だけとの判決を受けました。八木節も唄い回しや歌詞にも色々ありますが一番有名なのは・・・・

ハァー またも出ました三角野郎が 四角四面の櫓(やぐら)の上で
 音頭取るとはお恐れながら 国の訛りや言葉の違い
  お許しなさればオオイサネー

三角野郎とは何時も尖がって虚勢を張っている男の事です。

カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。

連休に河口湖経由で伊豆高原へ行ってきました。日曜日は寒かったですね。今年の紅葉はさっぱり分かりません。早いところは1週間ほど早く遅いところは例年より遅れている場所もあります。全体的に1週間ほど早いのですが、紅葉は1週間が勝負です。今年は回る順番を決めるのが難しいですね。19日に新座の平林寺へ行ってきましたがやはり少し早かったです。なお、11月26日は天皇陛下が見えるので一般人は入れませんもで御注意を!20日には松戸の本土寺へ行ってきましたが。やはり早かったです。やはり両方とも平年並みの今週中でしょう。

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2009年11月23日 (月)

信州 生島足島神社

11月1日に長野県上田市の生島足島神社へ行ってきました。この神社は生島大神(生みの神)と足島大神(満〈足る〉たす神)の二神を祭る神社です。創建は不明ですがかなり古い神社だと言われています。平城天皇から寄進を受けています。社格は非常に高く延喜式神名帳では名神大社となっています。古代より日本総鎮守と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神です。鎌倉時代は塩田北条氏に厚く遇されていました。生島足島神社には武田信玄が信濃の大半を勢力下に置いた永禄9・10年(1566~1567)の数回にわたり信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達をここに集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が83通残されており、国の重要文化財に指定されています。この時は武田家の跡取りだった長男の武田義信を謀反の罪により義信の側近を処刑し義信の旗本を八十騎も追放しています。義信は東光寺に押し込め切腹させました。この騒ぎでの家臣の動揺を収めるために生島足島神社の神前で起請文をとったのでしょう。武田信玄も父親の信虎を駿河の今川家へ追放した過去もあり、予防的に英断を下したのでしょう。長福寺は生島足島神社の隣にあり、いまは廃寺とされた神宮寺とともに二寺院が生島足島神社に仕える寺院でした。長福寺の本尊は重要文化財に指定された「銅造救世観音菩薩立像」でしたが、盗難にあい現在は行方不明です。この寺院には法隆寺の夢殿の1/2のサイズの信州夢殿があります。カメラはK-7とシグマ18-200mm&10-20mm&ペンタックス55-300mmです。

生島足島神社:

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長福寺:

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2009年11月22日 (日)

塩田平の秋1

11月1日の長野県上田市の塩田平の龍光院(りゅうこういん)と前山寺(ぜんざんじ)です。龍光寺は塩田北条氏3代の北条義政・国時・俊時の菩提寺です。龍光院は1282年に北条国時が父親の義政の菩提を弔うために創建した寺院です。北条国時は息子の北条俊時ともども51年後に鎌倉の東勝寺で北条得宗家とともに自害し塩田北条氏は滅びました。前山寺は独鈷山の北側にあり面前に塩田平を見下ろす事が出来ます。弘法大師空海が修行霊場として開いたと伝えられています。ここの三重塔は重文で、「未完成の完成塔」と言われています。未完とは二層、三層に縁や欄干や窓が無い為だそうです。龍光院と前山寺の間に塩田北条氏の居城である塩田城址があります。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&ペンタックス55-300mmです。

龍光院

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前山寺

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2009年11月21日 (土)

日光田母沢御用邸記念公園1

11月2日の日光市の田母沢御用邸記念公園です。雨の中の庭園は色が綺麗でした。傘をさしての片手撮りはカメラが重くてだんだんしんどくなってきました。カメラバックも内部までずぶ濡れでした。秋の日光田母沢記念公園は綺麗だと聞いていましたが、今回初めて紅葉の最盛期に行く事が出来ました。雨が激しくて風も強かったので大変でした。

田母沢御用邸は日光出身で明治時代の銀行家の小林年保の別邸を基に、明治時代の赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時の皇太子)の静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。戦争中は現天皇の疎開地ともなりました。現在、10棟の建物は国の重要文化財に指定されています。昭和22年に廃用とされ旧大蔵省の管理となり現庭園を除く大部分の土地は隣接している東京大学の日光植物園の所属と変わりました。その後、修復工事を経て平成12年に日光田母沢記念公園として一般公開されています。

カメラはソニーα900とVario-Sonnar24-70mm&ソニー70-300mmGです。

一昨日、赤坂の赤坂ACTシアターの中島みゆきの16回目の夜会「~夜物語~本家・今晩屋」へ行ってきました。久しぶりの赤坂でしたがあまりの街の変わりようにビックリでした。中島みゆきのショウは2部構成で1部は意味が全く分からず大掛かりな学芸会のようでした。2部の後半からやっと少し面白くなってきました。仕掛けは大掛かりでした。中島みゆきの夜会を見たのは私は初めてでした。私の知人たちも中島みゆきのファンが多いですが、彼女の夜会は最近面白くないと言っていました。確かに!チケットはS席20,000円でした。値段のせいでしょうか観客は40代後半からの人が多かったです。二人で4万円ですからね!年金生活者には結構厳しい値段です。開演が20時で終了が22時20分でした。晩御飯は赤坂BIZタワーのポルトガルレストランの「カステロ ブランコ」でポルトガルワインと最後はデザートとポートワインを楽しみました。

日本は何故こんなにコンサートや演劇のチケットが高いのでしょうか?40年以上前にヨーロッパへ行った時に、どんな田舎町でも必ず小さいコンサートホールが有って、土曜日や日曜日にはコンサートホールでアマチュアバンドのクラッシックのコンサートをやっていました。演奏者は大工さんや警察官などでした。素人と言えば素人なのですが、演奏は大したものでした。郊外の川べりに行くと高校生やアマチュアのシンホニックバンドがクラッシックや行進曲などを演奏していました。同じようにアメリカの南部の方を旅した時には夜になると郊外のバーに多くの人が集まりアマチュアがジャズの生演奏をしていました。皆、上手かったです。やはり文化の差なのでしょうね。音楽が身近なのです。もちろんクラッシク音楽が最高でJポップスが低いと言う意味ではないのですが生活にクラッシクが合っているのでしょうね。私も高校大学と楽器を演奏していて大学を卒業したら音大に入り直そうと真剣に考えた時期がありました。むかしの話ですが音楽では生活できないと諦めました。

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2009年11月20日 (金)

新宿御苑の秋バラ

10月23日に新宿御苑へ行ってきました。新宿御苑は少し秋が始まりかけていました。ここのフランス庭園のバラ園は綺麗です。カメラはペンタックスK-7とペンタックスレンズ55-300mm&タムロン90mmマクロです。ソフトフォーカスの画像はデジタルフィールターでソフト効果を出しています。

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2009年11月19日 (木)

別所温泉の秋

11月1日の長野県上田市の別所温泉です。安楽寺~常楽寺~北向観音(きたむきかんのん)と回ってきました。別所温泉は日本武尊の東征の時に発見されたと言い伝えられています。平安時代の清少納言の書いた「枕草子」に「湯は七久里、有馬の湯、玉造の湯」と書かれていて古来より日本三大名泉と言われています。七久里とは別所温泉の事だと言われています。鎌倉時代は塩田平を治めていた塩田北条氏の創建による安楽寺の八角三重の塔は国宝に指定されています。安楽寺の隣に常楽寺があり、常楽寺と長楽寺(現在は廃寺)と共に別所三楽寺と言われていました。安楽寺は塩田北条氏の後援もあり鎌倉時代は鎌倉五山の筆頭である建長寺と同格の寺格が与えられていました。常楽寺は北向観音の本坊の寺院です。塩田北条氏は新田義貞の鎌倉攻めに一族をあげて鎌倉へ向かい北条得宗家と共に全滅しました。現在の天台宗総本山延暦寺の256代座主(天台宗最高位)は常楽寺の住職の半田孝淳大僧正です。観音様は普通は南に向かって建てられるものなのだそうです。北向観音は北へ向かって建てられた非常に珍しい寺院です。北を向いて長野市の善光寺へ向いているので裏善光寺とも呼ばれています。善光寺は来世の利益を北向観音が現世の利益をもたらすと言われていて、善光寺と北向観音の両方を回らないと半分しか御利益が無いと言い伝えられています。北向観音の境内には川口松太郎の長編小説「愛染かつら」で、主人公達が菩提寺のカツラの木の下で永遠の愛を誓ったことで有名になったカツラの木があります。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mm&シグマ10-20mmです。

安楽寺:

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常楽寺:

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北向観音:

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2009年11月18日 (水)

11/8の桐生川の紅葉1

11月8日の群馬県桐生市の桐生川の紅葉です。全体的に少し早すぎたようです。桐生の郊外から少し上流に入ったところの紅葉が綺麗でした。もっと上流は紅葉の始まりでした。紅葉の到来が逆転しているようです。11月15日にも再び行っていますが15日には桐生川の下流は盛を過ぎていました。紅葉は難しいですね。高低差のある渓流は何処かでベストな紅葉に出逢えるのが良いですが下流の方が上流より早く紅葉するのは初めて見ました。今回、桐生川へは初めて行きましたが道が狭いのですれ違いが大変でした。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mmとペンタックス55-300mmです。スローシャッターは三脚を渋々と持ち出しました。1/30秒までは手撮りです。

一気に冷え込んできましたね!昨日、タイヤをノーマルからスタッドレスに替えてきました。ノーマルタイヤは2輪にスリップマークが出てきたので来春には新しいタイヤを履かないといけないようです。デフレですからタイヤも安くなっているようです。車は来年の1月で3年目に入るので来年3月に乗り換えるか、来春に新しいノーマルタイヤを買って2年ほど走るかが問題です。その場合は来年11月にスタッドレスも買い替えないといけません。2年間で5万キロ以上走るので4年間だと10万キロを超えてしまいます。これでも最近は昔に比べて走らなくなっているのです。スタッドレスに替えると高速道路でスピードを出せなくなります。それだけ安全運転になりますが、何となく不満!です。もうそろそろ年の事を考えないといけないですね。

千載集から藤原清輔(きよすけ)の歌。

      更(ふ)けにける

    我が世の秋ぞ

      あはれなる

    かたぶく月は

    またも出でなむ

(意)老けてしまった私の人生の秋は悲しいものだ。西へ傾く月は、再び東から昇るだろうけれど。

藤原清輔は藤原氏の六条家の出で六条藤家とも呼ばれています。和歌の家系で歌道家としては藤原俊成(藤原定家の父)の御子左家を凌ぎました。

昨日のニュースによると、社民連代表を務めた前参院議員の田英夫氏が13日に亡くなりました。若い人たちは聞きなれない名前かも知れませんが、TBSの報道番組ニュースコープのニュースキャスターから社会党の参議院議員となり2007年に引退しました。彼の反戦・反権力の思想は多くの人に影響を残しました。反権力だったため自民党などから多くの圧力を受けながら自分の思想信条を貫きとおした人です。ベトナム戦争当時、アメリカが勝っているとの一般マスコミの報道に対し直接ハノイを訪れアメリカが負けていると真実を報道したため当時の佐藤政権から圧力を受けました。惜しい人が亡くなったと思います。自民党政権時代は多くの反戦・反権力のマスコミ人が圧力を受けました。今のマスコミには真実を報道する勇気のあるマスコミ人が果たして何人いるでしょうか?むかし私は小さなテレビ局の総務課長をしていた事がありました。当時、郵政省からテレビ局へ天下ってきた元官僚の役員から私の言う事を聞かないと放送免許を取り上げると言われた事があります。大喧嘩になって放送免許を取り上げられるものなら取り上げてみろ。恥をかくのは郵政省だと言いきってやりました。郵政省の局長に言いつけてやると言ってましたがその後音沙汰なしでした。免許事業には必ず官僚が免許に付属して天下ってきます。どの大手報道機関も天下りを受け入れているはずです。また政府関連の広告宣伝費もマスコミの営業的には大きいのです。ここにマスコミは免許とお金で圧力を受けやすい体質があるのです。その間をかいくぐって真実を報道するのは大変な勇気が必要とされるのです。

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2009年11月17日 (火)

上野公園の芸術の秋

11月10日に上野公園内の東京都美術館で開催されている「冷泉家時雨亭叢書完結記念 冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」へ行ってきました。内容が内容だけに割合空いていました。やはり和歌などに興味がないと面白くないと思います。私には興味津々でした。平安時代から代々続く正倉院みたいなものでしょう。この御文庫に大切に保存されてきた古文書が残っていたので色々な歴史的な出来事の背景が分かって来たのです。また和歌の家として朝廷から勅撰和歌集の編纂を何時命じられても対応できるように古来からの歴史的な歌詠み達の家集を集めて保存してきたのです。古来から勅撰和歌集には同じ歌を勅撰和歌集に載せてはならない決まりがありました。今回は前期でしたが後期の展示も是非行きたいと思っています。

上野公園には昔とは違ってテント村が昼間にはほとんど見る事が出来ませんでした。代わりに寝る道具などを持ったテント村の住人達がベンチに座っているのを多く見かけました。お昼の炊き出しを待っている人達でしょうか並んで座っている人達がいました。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mmです。

昨日、直嶋正行経済産業相が7~9月期の国内総生産(GDP)速報値の公表前に開かれた経済関係者との懇談会で、発表前のGDP数値を漏らしてしまった大ポカをしてしまいました。長らく野党ボケだったので、まだ与党閣僚として自覚が足りないのでしょう。今朝のニュースなどで政府発表前に数字が漏れたのに株価にほとんど影響が無かったことにビックリしたようなコメントがありました。昨日、私も車の運転中にニュースを聴いてさぞかし株価が動いたかと日経平均株価を調べたら20円程度しか上がっていませんでした。10年ほど前にも一度あったらしいですが、その時には一気に500円程上がったそうです。日本は世界から見捨てられ始めているのかもしれませんね。何か不思議な感じです。よほど景気が冷え込んでいるのでしょうね。師走を控えて景気の先行きが不安ですね。どうなるのでしょう?

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国立西洋美術館で古代ローマ帝国の遺産展をやっていました。古代ローマにも興味があるので寄って来ました。その後で西洋美術館の常設展を見て来ました。ここの美術館は珍しく写真撮影を禁止されていません。当然フラッシュやシャッター音は禁止です。ここの常設展は松方コレクションを核としています。私の大好きな作品が数点あります。

K7pt9079カルロ・ドルチェ「悲しみの聖母」
この作品はとにかく美しいです。この作品の前では
ため息が出てしまいます。1655年頃の作品です。







K7pt9084 マリー=ガブリエル・カペ「自画像」
この作品はロココ風の色気を感じます。
フランス革命が迫っていた18世紀には女流画家
がフランスで生まれてきました。他に女性の社会
参加が増えてきた時代でもあります。
この絵からは健康的な若い女性の色気を感じます。
自画像ですのでカペは可愛い女性だったのでしょうね。



K7pt9087 ウイリアム=アドロフ・ブーグロー「少女」
あまり有名な作品ではないようですが可愛い少女です。








K7pt9099 ペーテル・パウル・ ルーベンス「眠る二人の子供」
この二人の子供はルーペンスの姪と甥です。



K7pt9088_2 エミール=オーギュスト・カリョリス=デュラン
「母と子」(フェード夫人と子供たち)
実の娘と孫達を描いた作品です。







この他にも沢山すばらしい作品が展示されていて時間が経つのを忘れてしまいます。

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2009年11月16日 (月)

日光東照宮の秋3

11月2日の雨と風の中の日光東照宮です。日光東照宮は、元和(げんな)3年(1617)徳川初代将軍徳川家康を御祭神におまつりした神社です。徳川家康は、元和2年4月17日に駿府城(静岡県静岡市)で75歳で亡くなり直ちに久能山に神葬されました。そして遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。久能山には久能城がありましたが、廃城とされその地に久能山東照宮が創建されました。日光に移された家康の遺骸は日光に葬られ最初は東照社と呼ばれていましたが、のちに朝廷より宮号を賜り、東照宮となりました。日光東照宮の地はもともと二荒山(ふたらさん)神社が鎮座し日光を神域とされていました。二荒山神社はもともと下野国一宮で由緒正しい神社でした。神域は伊勢神宮に次いで日本で2番目に広い神域です。宇都宮にも二荒山神社があり、これは宇都宮二荒山神社と呼ばれています。宇都宮二荒山神社は名門の豪族宇都宮氏から宮司が出ていて日光の二荒山神社とは別な動きをしていたようです。しかし延喜式神名帳(927年)には宇都宮二荒山神社が大社とされていたようです。日光東照宮が日光の二荒山神社の中に久能山から移ってくるについては必ず何かの大きな問題が起きていたはずなのですが!多分、日光二荒山神社は徳川幕府の強圧的なそして金銭的な懐柔策により場所を東照宮に譲ったのだと思います。日光二荒山神社は後北条氏に加担したため豊臣秀吉より領地を没収され非常に困窮していたそうです。その後を継いだ徳川政権は当然社領を復活させ厚く遇したに違いがありません。

宇都宮景綱の家集「沙弥蓮愉集」から。

      秋の色も

    まだふかからぬ

      もみぢ葉の

    うすくれなゐに

    ふる時雨かな

(意)秋めいた色もまだ深くない紅葉の薄紅。時雨がそこに降り注いで薄紅に添えようとするかのようだ。

詞書に「宇都宮社の九月九日まつりの時よみ侍る」とあります。宇都宮二荒山神社のお祭りを詠ったものでしょう。祖父の宇都宮頼綱は藤原定家と親交がありました。宇都宮頼綱は畠山重忠の変に北条氏に従い畠山重忠を討つのに功をあげましたが、畠山重忠に同心したとの疑いと舅にあたる北条時政と牧氏の陰謀に加担したとして誅伐を命ぜられました。宇都宮頼綱は直ちに出家して実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と名乗り鎌倉へ出頭し無実を訴えました。訴えが認められると京都の小倉山の山荘に隠棲をしました。引退しても下野国の大豪族の宇都宮氏の棟梁だったので隠棲資金は潤沢で京都の大寺院の修復などの資金元になったり、歌会を催したりして風雅な生活を送っていました。また伊予守護職になったりして隠棲してから楽しく過ごしたようです。藤原定家の選んだ小倉百人一首は宇都宮頼綱(蓮生)が京の別荘小倉山荘に隠棲していた時に、定家に古今の歌人の代表作の色紙染筆の制作を依頼し、その作品の和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まると言われ、その事から小倉山荘の名前から小倉百人一首と呼ばれるのです。当時、藤原定家は和歌の家としてだけではなく広く芸術のプロデュースもしていたようです。宇都宮頼綱は宇都宮歌壇を京都歌壇・鎌倉歌壇と並び日本三大歌壇と呼ばれる礎を築きました。

11/14のZakuZaku(産経新聞)のWeb版に田中角栄元総理と鳩山総理の気になる記事が載っていました。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20091114/plt0911141350002-n2.htm
可能性は高いのです。日本の少し古い政治家は田中角栄事件以来アメリカが怖くなっているのです。アメリカに逆らうとローキード事件の時のように秘密文書が偶然に郵便局の配達ミスを誘うと言われているのです。属国日本が勝手な事をするのを許さないのでしょうね。アメリカは国益のためには反アメリカと判断すると潰しにかかります。それが国際紛争が絶えない根本原因の一つなのです。その事をアメリカ自体が理解していないので、世界中から嫌われるのです。9.11テロのアルカイダも元々はCIAの下部機関でした。北朝鮮やイランの核はアメリカへの恐怖から作られたものです。中国の核は台湾海峡から本土の中国共産党が台湾を侵攻するのを防ぐためにアメリカが核を使って中国共産党を牽制した事から中国共産党はすべてに優先して核開発をしたのです。最近の研究では中国は核開発の為に6千万人が餓死したとも言われているのです。当時の中国の人口は6億人でした。信じられますか!国民の10人に1人が餓死しても国(?)を守るために核開発をしたのです。北朝鮮も同じです。平和ボケしてきた日本人には理解不能でしょう。また自己中心のアメリカにも理解は不能でしょう。これから日本をどのようにして守るかは非常に難しい問題です。アメリカ抜きには考えられないでしょう。いかに上手にアメリカと付き合うかがこれからの日本の政治家にとって頭の痛い問題となります。安っぽい愛国主義やいい加減な御都合主義では日本を維持出来なくなるでしょう。自己主張が出来ない国家は世界中から馬鹿にされます。日本は世界に向けて堂々と主張できる平和憲法を持っていて、過剰すぎるほどの屈指の防衛力を持っています。これからの日本は軸足をアメリカから他に移す事を真剣に考えないといけないでしょう。アメリカからは裏切りと見られるかも知れませんが。

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2009年11月15日 (日)

小諸城址 懐古園の秋2

10月30日の長野県小諸市の小諸城址です。ここは隣の上田城とはかなり感じが違うように思います。小諸城のほうがシットリとした感じです。やはり日比谷公園を設計した本多静六博士の設計による公園だからでしょうか?小諸佐久地方は東信州から関東平野へ攻め込む時に使う峠である碓氷峠と内山峠と十石峠を防御する重要な地点です。武田信玄もこの3つの峠を使って関東へ攻め込みました。小諸佐久地方は戦国時代から関東防衛の重要拠点でした。幕末には佐久市の龍岡に幕府老中・陸軍総裁だった松平乗謨(のりかた)が築いた洋式の龍岡城があります。この城は函館の五稜郭を小型化したもので防御と攻撃の両方ができる戦闘用の城で日本では五稜郭の城は龍岡と函館だけです。松平乗謨は徳川幕府の中心人物の一人でしたが最後に幕府と決別し名前を大給恒(おぎゅう ゆずる)と改め北越戦争では新政府側として藩をあげて出兵しました。明治政府では主に叙勲勲章制度を取り仕切り、日本赤十字社の前身の「博愛社」の創設に力を置き、日本赤十字社をつくり育てた人」と言われています。カメラはペンタックスK-7とシグマ18-200mmです。

島崎藤村の「千曲川旅情の詩」

 昨日またかくてありけり
 今日もまたかくてありなむ
 この命なにを齷齪(あくせく)
 明日をのみ思ひわづらふ

 いくたびか榮枯の夢の
 消え殘る谷に下りて
 河波のいざよふ見れば
 砂まじり水卷き歸る

 嗚呼古城なにをか語り
 岸の波なにをか答ふ
 過(いに)し世を靜かに思へ
 百年(もゝとせ)もきのふのごとし

 千曲川柳霞みて
 春淺く水流れたり
 たゞひとり岩をめぐりて
 この岸に愁(うれひ)を繋(つな)ぐ

この歌は「小諸なる古城のほとり」と対になった歌です。小諸なる古城のほとり・・・で歌い始める有名な歌は後に「千曲川旅情の歌」と題されました。

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